4 異文化との遭遇と私

中国人と付き合っているうちに、彼らの行為に違和感を覚えたり批判的に見てしまうことがあった。だが、それは日本人の生活習慣や価値観(小竹がいう文化的背景)からの一方的な見方になっているかもしれない。そこで、『異文化コミュニケーション』の観点からもう一度見直してみたいと思う。

 

A 川に落ちた犬は叩け

学生から『川に落ちた犬は叩け』という聞き慣れない『諺』を教えられたことがある。その意味をインターネットで調べてみた。この諺は魯迅が言い出し、毛沢東もこの表現を使ったそうで、この場合の『川に落ちた犬』とは、落ち目になった反動旧勢力で、その犬には手をゆるめることなく徹底的に攻撃しなければならないという意味のようである。

また、ある日本の保守主義(右翼?)の論客が、この諺を日中間の政治問題に関する両国政府の姿勢に当てはめた。日本政府は過去に中国を侵略した負い目があるので、中国に弱腰の態度をとっている(つまり日本は『川に落ちた犬』)のに対して、中国政府はそんな日本を嵩にかかって繰り返し攻撃している(『犬』を叩くのが中国)というのである。その保守主義者は、中国への武力攻撃や太平洋戦争は当時の国際情勢の中で、やむを得ない自衛のためであり、日本は中国に対して負い目を感じる必要がない、と主張したいのだ。

わたしは、この論客の主張を容認するつもりはないが、『川に落ちた犬は叩け』の意味を理解する一具体例になっていることは確かである。そして、この諺は、中国人の対人関係における心理的背景を理解するための参考になるかもしれないとも思った。だとすれば、一方の日本人の対人関係における心理はどう表現できるだろうか? 敢えて類似の諺を作るとしたら『川に落ちた犬を救え』となる。

 このことを私が経験した具体例でもう少し考えてみよう。

 

中国にいる日本人教師から、次のような不満を数度きいたことがある。

――中国人は頑固で、容易に自分の非を認めようとしない。スーパーや商店でも、売り子は自分のミスを認めない。

私も、中国人に対して類似の印象を持ったことがある。

それはある大学の中国人教師のAさんに関するものだった。彼女は二十代後半の大和撫子を思わせるほどおしとやかな中国人女性で、私ははじめのうちは、とても好感を抱いていた。この大学に勤務した二年目に、日本語科教務主任が日本に留学したので、その間Aさんが教務主任代行となった。何分、若いので管理職を勤めるのは重荷だったようで、大学の行事の連絡をしばしば怠るので、私たち日本人教師はとても迷惑していた。が、他大学でも教務主任からの連絡がないまま、授業中に学生から知らされて驚くこともよくあったので、Aさんだけを責めるわけにはいかないだろう。

さて、私は2年間勤務したこの大学から解雇された。学期末の6月に教師が送別会をしてくれることになり、カラオケで歌ってから夕方にレストランで食事会が予告されていた。が、その後、Aさんからの連絡が前日まで無しのツブテであった。私は学内の知人に退職の挨拶回りをしたかったが、部屋に縛りつけられたようにAさんの連絡を待ち続けた(私は携帯電話を持っていなかったので)。

送別会当日の朝になって、たまりかねた私は彼女に電話した。

「送別会を予定どおりしてくださるのですか? なぜ連絡してくれないのです」

と、問い詰めると、彼女は詫びる様子もなく、こういった。

「学期末で、大学への提出書類などで数日間とても忙しくしています」

 送別会の主賓の私をほったらかしにしておいた上に、こんな言い訳をするAさんには、腹が立ち「送別会はもう結構です!」と言いたいほどだった。が、それでは他の教師に対して失礼になる。そこで「カラオケは止めて、夜の送別会だけをお受けしますので、場所と時間だけ後でご連絡ください」といって電話を切った。

予定通りレストランの個室で送別会が開かれた。Aさんが型どおりの挨拶をした後、記念品を贈呈してくれた。

どうやら、忙しいなかで会場の設定から記念品の購入まで、彼女一人できりもりしていたようだ。その真面目さは認める。だが、なにもかも一人でやろうとするから、手に負えなくなって、私へ当然すべき気配りに手抜かりが出てしまったのだろう。私が会社で働いていたときも、このタイプのダメ管理職がいたものだ。私は食事をしながら横のAさんに次のように助言した。

「忙しい仕事をすべて自分だけで背負い込んではいけませんよ。だれか同僚の先生に手伝ってもらえばいいのです」

 それを聞いたAさんは急に顔色を変えて、部屋から飛び出していった。同僚の女性教師数人も彼女のあとを追った。おそらく廊下で泣いているAさんを慰めているのだろう。部屋に取り残された男性教師数人はしらけた雰囲気の中で、だまって酒を飲んでいた。送別を受ける立場にある私は、心優しいAさんに意地悪をする常識はずれの主賓になってしまったようだ。こうして後味の悪い送別会になってしまった。数日後、私は思い出深い大学を去った。

 日本で食事をしながらAさんの事を家族に話した。すると我が娘が、中国人の女医Bさんについての経験談を語った。

娘は駆け出しの小児科医で、滋賀県のある市民病院に勤務している。そこに、日本人の夫をもつB女医が派遣されてきた。Bさんは外国人なのに日本の医師免許を取得しているのだから、相当に能力の高い女性であろう。

ある日、Bさんは些細な医療上のミスを犯して先輩の医師から注意を受けた。それに対して彼女は、自分の医療手続きをくだくだと言いつのり、絶対ミスをしていないと言い張った。一部始終を見ていた娘は呆れたという。娘は私にこういった。

「B女医は私と同じで、経験の浅い医師なのだから、ちょっとくらいのミスはときにはするわよ。重篤な医療過誤をしたわけではないのだから、素直に誤りを認めて、先輩医師に謝れば、それで済むことなのに。こんなに我の強い素直じゃないBさんとは、とても親しいお付き合いはできない、と思ったわ」

 

中国人AとBに対する日本人としての見解は、私と娘で完全に一致している。ただし、Aさんは少々幼児的である。また、B女医は高度な技術を要求される医者の世界に、それも日本人ばかりの中に飛び込んだストレスと気負いがあったのかもしれない。だから、この二人だけで、中国人一般の性向だと敷衍することには慎重でなければならない。

しかし、なぜ中国人の中にはこのような行動をとる人が(多いとはいえないまでも)いるのだろうか? それは中国社会に、ミスを犯したり相手に迷惑をかけたとき、それをあっさり認めて詫びると、後々不利な状況に置かれる厳しい現実があるのかもしれない。そう思ったときに、『川に落ちた犬は叩け』が蘇ってきた。

一方、日本社会の日常では、ミスを認め詫びれば、相手が許してくれる暗黙の了解が形成されているのではないか。結果として、日本の社会では素直な態度をとった方が後々有利に展開する。これは上位者(たとえば会社の上司)を前にしたような場面では特に重要で、極端な場合、自分に非が無くても、疑われたときにはあっさり謝る。そうすれば上位者は「ウイ奴だ、許してやろう」で『川に落ちた犬を救ってやろう』となる。だから日本では、非を認めずに、くだくだと言い訳をする態度が最も嫌われるのである。私のサラリーマン時代の経験からもそういえる。

このような日中の差は、日本人の『集団主義』と中国人の『個人主義』との差から説明できるかもしれない。ただし、日本の集団主義は水田稲作農業のために、灌漑工事と定期的な保守作業が不可欠であり、そのために村人が共同作業をしなければならないことから形成されたとする意見が一般的である。一方、個人主義は西洋の牧畜を基本とする生産体制から生まれたとされる。しかし中国では、華北はともかく、長江流域やそれ以南では日本と同様に水田稲作が普及しているにも関わらず、そこでは集団主義ではなく、依然、個人主義的である。おそらくその他の要因、国土の広さ、自然環境の厳しさ、異民族の支配の有無などの環境の差が関わっているのだろう。

いずれにしても、日本人の集団主義の中では仲間との協調心や従順さが重視されるのに対して、中国人の個人主義では頼れるのは自分(とその血族内)だけという心理が働いて、自己主張が強く、妥協をし難いのではないか、と私には思えるのだ。

 

B 地下鉄の乗り降りはアメリカン・フットボールのよう

 西安駅から教え子と二人でローカル線に乗ろうとしたときのことだった。プラットフォームへ行くと既に汽車が停まっていた。乗車口に人が群がっており、大黒天のように大きな袋を担いだ男が何人もいて、我先へと押し合いへし合いしているのだ。列車の窓から乗り込んでいる人もいた。

それを見て、私は戦後まもなくの日本の列車の混雑を思い出して、嫌な気分になった。 それは敗戦直後の人心荒廃の極みにあった日本の姿を象徴的に示す光景であったのだ。

 発車間際になって、私と同伴の学生はようやくデッキに乗り込むことができた。しかし、たかが小旅行でこんなに混雑した列車に乗り込むことに嫌気がして、私は学生を連れてプラットフォームに下りてしまった。苦労して座席指定の切符を入手してくれた学生は、出ていく列車を眺めながら、「なんという無駄なことをしたのです」と、怒った。切符は無駄にしたものの、駅前の夜行長距離バスで目的地へ行くことができたのだが。

 旅行から帰り、西安駅前からバスに乗るために、停留所で待った。我々は乗車を待つ列の三、四番目に並んでいたが、やって来たバスの乗車口が数メートル先にずれると、そこに群衆が群がり、結局並んで待っていた我々はバスに乗れなかった。 

地下鉄の乗り降りはアメフットのよう
地下鉄の乗り降りはアメフットのよう

 あれから、かれこれ6、7年が経過したが、他の都市でも事情は同じで、中国人は並んで待つという習慣がないのだ。そして上海の大学に赴任した。この大都市は中国の中ではヨーロッパ文明の洗礼をうけ、現在、世界の中でも最も地下鉄網の発達した近代都市の1つであると言われている。しかし、地下鉄の乗客のマナーはとても褒められたものではない。あるアメリカの学者は、乗降時の押し合いへし合いの惨状(?)は、「アメリカンフットボールの激突のようである」といった。気の弱い日本の婦人なら、乗り込む乗客に押し返えされて下りることもできないかもしれない。

 一方、日本では、たとえば京都の駅前で市バスを待つ乗客は10メートルもの列をつくって、整然と並んで待っているのだ。政府や公的機関の命令や指導でそうなったのではなく、自然発生的にこのような秩序が形成されたのだと思う。

 なぜ、日中でこうも違うのか?

 ある人は、両国間の人口の多寡で説明しようとする。だが、日本だって大都会は人で混み合っているのだ。前節で述べた集団主義と個人主義の差も一因かもしれないが、私にはそれだけでは説明がつかないように思う。

 上海の日本語教師会でたまたま知り合った、社会科学関係の学者に意見を聞いてみたことがある。この学者の説明で1つ納得させられたのは、

 ――中国には、日本では考えられないほどの、激しい貧富の差があって、その日暮らしの貧しい人が依然いる。これらの人は、他人を思んばかって、遠慮していては生活ができないという厳しい現実があるからだ。

 というものだった。なるほど、冒頭に紹介した列車の乗車口に我先へと群がっている人々が、それにあたるのだろう。そのような人は数が少なくても、水が低い方へ流れるように、全員がそんな心理となって、カオス状態になってしまうようだ。

 別の例を紹介する。たとえば、大型スーパーでバラ売りの野菜を買おうとしよう。袋に入れて、カウンターの上の秤で秤量してもらわなければ値段が決まらない。私が中国に来たばかりの頃には、カウンターに先にきている二、三人の次に、我が野菜の袋を秤に載せようと待つ。が、自分の順番だと思っても、横の客が先に秤に載せてしまう。日本的譲り合いの精神で遠慮していたら、いつまでたっても自分の番がこないのだ。中国でこんな経験をしているうちに、私も順番など無視して、早い者勝ちの論理に染まってしまった。

 日本に帰っても、ついこのクセが出て、先日も、あるスーパーで同じことをやったら、横のオバサマから睨まれて赤面してしまった。

 さて、中国人のこのような我先にという手前勝手な行動パターンは将来どうなるのだろうか? この国が国際化するに従って、他のマナーと同様によくなるとの楽観論もある。が、同時に、大きな経済的格差が縮小し、貧しい者が虐げられる社会が改まることも不可欠の条件ではないだろうか。それは、人民が皆、豊かさを享受できることを目指した、鄧小平の究極の目標でもあったはずである。

 

  物を放る

 西安の繁華街のとある音楽ショップでクラシック音楽のCDを見つけ、カウンターへ行って金を払ったときのことだった。女店員はCDを袋に入れてから、カウンターの端にいる私に向けて、放り投げた。カウンターの上、2メートルくらい離れているところからである。

 私はカッとなって、「客に向かって何という態度だ!」と、怒鳴りかけたがやめた。日本語が通じる相手ではなかったからだ。その後、中国の各地に住むにしたがって、中国人は何のためらいもなく、物を放る性癖のあることが分かってきた。

慣れとは恐ろしくも、不思議なものである。あれほど羞恥心で拒否反応があった、ニーハオトイレでも、一年も中国で過ごしているうちに平気になった。旅行中にたまたま入った田舎のトイレで、通路を挟んで向かい側の中国人と睨めっこしながら、私はお尻をまくって排便をすることができるようになったのだ。

 中国人が物を放り投げるのは、単に習慣なのであって、悪気がさほどあるわけではない。たとえば、ある大学では、教師用宿舎を訪れる学生は、一階の入り口近くにある受付で学生証を預けることになっていた。たまたま、その学生と一緒に外出することになり、その受付の前に来ると、管理人のおばさんは、学生証をカウンターに放り投げて学生に返した。町中でタバコを買うと、店主は釣り銭をポイと放り出す。慣れたから腹も立たない。

 しかし、三つ星以上のホテルのフロントデスクでは、受付嬢は客に対してそんな態度が不躾であることくらい弁えており、やはり儒教的精神が生きているのだ。とすれば、物を平気で放り投げるのは、マナー知らずの田舎者根性によるものかもしれないし、60年以上も続いている共産主義体制下の国民総公務員の悪弊が改まらないのかもしれない。

 だから、接客態度には日中で大きな隔たりがある。日本のデパートが中国へ進出して、雇った中国人に接客マナーを教えると、彼らは「なぜそんな馬鹿丁寧なことをやらなければならないのか?」と不思議がる。あるいは、中国で業務をはじめた日本の宅急便の会社が、中国人の配達人に「送り主の真心を相手にお伝えするのが、配達人の心得だ」と教えても、納得されないらしい。間違いなく先方に届けたらそれで十分だ、と中国人は考えているのだろう。それももっともな理屈ではあるが。

 物を放り投げる態度で、私は一度だけ学生に厳しく注意したことがある。黒板に答えを書き込んだ男子学生が、その後チョークを私にポイと放って返した。私は、敢えてクラス全員に聞こえるような大きな声で、その学生をたしなめた。

「日本人は物を放るような行為をとても無礼なことだと嫌う。君は将来日本人と付き合う機会があるだろう。そんなことを絶対してはいけないよ!」

 

 この章では『異文化コミュニケーション』というテーマを扱っている。だから、中国旅行をしている日本人は、中国人から物を放り投げる態度を見せつけられても、簡単に怒り出して、中国人嫌いにならないように願いたい。悪気があるわけではないのだから。

  ただし、そうは書いたものの、冒頭に紹介した、音楽ショップの女店員の態度は、私の目の前に飛んできたCDの「ガシャ」という音と共に、未だに鮮明な思い出として忘れることができない。ということは、理性ではいくら抑えても、許し難い嫌悪感が強く我が心の中にうごめいていることを正直に告白しなければならない。異文化を理解して冷静に振る舞うということは、とても難しいことだと思う。

 

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