5 漢詩の世界、四方山話

A 武漢市への旅

江西師範大学に赴任して一年目の春、南昌市内のソメイヨシノは見る機会もないまま散り去ろうとしていた。

会話授業の休憩中に2年生の女学生二人が、武漢大学の桜を見に行こうと話しているのを小耳にはさんだ。武漢大学の桜は長江流域ではとても有名である。

軽い気分で「一緒に行こうか」と誘いをかけると、二人は乗り気で急に話が具体化した。4月4日は『清明節』で、中国では墓参の日とされており、この年から祝日に制定された。それがちょうど金曜日だったので三連休になって好都合だった。幸い汽車の切符も入手でき、二人の女学生と三人で、4日早朝に武昌行き急行列車に乗った。

ふたりとも無類の寿司ファンなので、前夜のうちに我が宿舎で稲荷ずしと巻きずしを作り、それを車中の朝食とした。彼女たちが美味しそうに食べ終わったところで乗客の一人に聞くと、武漢大学の桜は散ってしまったという。桜が見られないのは残念だが、武漢市には『黄鶴楼』と『武漢長江大橋』がある。そちらに見物先をかえよう。

 

B 黄鶴楼

黄鶴楼の入場料は50元(750円)。中国の有名観光地の料金としては高くなかったが、日中の物価差(5-10)考えると結構高いといえるだろう。私にとっては、黄鶴伝説や李白の詩でよく知っているので、入場料の多寡には関わりなく黄鶴楼は是非入りたい所だったが、学生は興味がないようで、

「外で待っているので、先生だけ行ってください」 

と遠慮した。

 楼内は、とりたてて見るべき物があるわけではなかったが、最上階から眺める長江は延々と春霞に烟っていた。

 

C 武漢長江大橋

『黄河』と『長江』は中国にいる以上、是非見ておきたいものである。黄河はその支流の渭水とともに西安や洛陽を中心とする古代帝国を育んだ母なる河、一方、ここ十数年の発掘調査により、長江には黄河文明よりさらに古い長江文明(稲作も行われていた)のあったことが分かってきている。私は西安時代に黄河を数度見たことがあるが、今度の旅行で長江とそれに架かる橋を見ることが大きな楽しみだった。

 

 ところで、文明を育んだ母なる二大河は、その巨大さ故に人の往来を妨げるマイナスの面も見逃すことができない。江蘇省の無錫職業技術学院で学生に教えているときに気づいたことだが、江蘇省には様々な方言がモザイク模様のように入り乱れており、例えば、長江の対岸同士の町で異なる方言が話されているらしい。これは、現代に至るまでの長い歴史の中で、長江が対岸の人の往来を妨げていることが大きな原因であろう

湖北省では、1950代にソ連の技術援助で『武漢長江大橋』が完成し、両岸の人々の往来が円滑に進むことになった。

武漢市は、長江と支流『漢江』が合流する地点にあり、長江の東側に武昌、西側では漢江の北に漢口、南に漢陽と三市があり、武漢三鎮と呼ばれていた。私が半世紀も前の高校生時代に習った『地理』の教科書には、この三市が独立して記述されていたが、その三市が大橋で結ばれることにより、一つの街『武漢市』に統一された。

その後、長江には10本以上の大橋が架かっているそうだ。

 その武漢長江大橋は黄鶴楼上からも遠望できたが、私たちはそこに行ってみた。

私は、長江にさしかかったところで橋上に立ち止まり、対岸や遥か下流の方角を眺めた。長江は春霞でぼんやりとかすんでおり、遙か下流が天空と一体となっている様は、李白の詩を彷彿とさせるに十分であった。李白の作詩した季節も旧暦の3月だから、ちょうど今私たちがいるときに同じだ。李白が作詩した時と千数百年の時空を超えて、長江は今も往時と変わりなく滔々と流れているのを知って、私は感動した。

黄鶴楼送孟浩然之広陵 李白 

 黄鶴楼にて孟浩然の広陵にゆくを送る

 

故人西辞黄鶴楼 故人西のかた黄鶴楼を辞し
烟花三月下揚州 
烟花三月揚州に下る 
孤帆遠影碧空尽 
孤帆の遠影碧空に尽き 
唯見長江天際流 
ただ見る長江の天際に流るを

 

D 長江は無限の広さか?

 長江の川幅は中流にある武漢市でも優に500メートルは下らないだろうが、下流になれば更に広い。江西省北辺の九江市は武漢市より下流にある港町である。この町は、三国時代には曹操の魏軍を『赤壁』で破った呉の前線基地であったし、東晋時代には陶淵明の故郷でもあった。

私は、武漢市訪問の一年後に、江蘇省南京市と安徽省合肥市を観光し、列車で南昌市に帰った。列車が『九江長江大橋』に差しかかろうとするとき、私は尿意をもよおした。トイレに入ろうとしたが、河を汚さないためだろうか、使用禁止になっていた。鉄橋を渡り終えるのを待ち続けること十数分しても、列車はまだ橋梁を渡る轟音を響かせつづけているのだ。我慢出来なくなって、車掌に「小便(シャオビエン)だからトイレにいれさせてくれ」と下手な中国語で何度も哀願したところ、やっとドアのカギを開けてくれた(大便でないことと、私が外人だったからだろう)。しかし、用を済ませた後でも、列車はなお鉄橋の上を走っており、車窓の下には黒滔々たる大河が流れているのが見えた。一般道路と列車線路と共用の大橋なので、河の両側には長いスロープがあるのだろうが、それにしても長江を渡りきる時間は無限の長さに思えたのだ。日本の鉄橋なら長くても数分で渡りきるのに。

李白の詩には『早発白帝城』という長江上流を詠った名作もある。これは長江の流れの速さを印象づけるものだが、長江の雄大さをも描いている。上の私の体験は、長江の広大無辺さと李白の詩人としてのスケールの大きさとも重なり、この大河に対する強い印象として今も忘れることができない。

 

E 現地に住んで深まる漢詩の理解

  昔、NHKのシリーズ番組『シルクロード』で、作家の陳瞬臣氏が、咸陽市(唐時代には渭城と呼ばれる)の渭水の畔に立ち、王維の名詩を解説している場面があった。

 

送元二使安西 王維 元二の安西に使するを送る
渭城朝雨潤輕塵  の朝雨輕をうるおし
客舎青青柳色新   
客舎青青柳色新たなり

勧君更盡一杯酒  君に勧む更に尽くせよ一杯の酒

西出陽關無故人  西のかた陽関を出ずれば故人無からん

 

唐の時代、都人は西へ旅する親戚・友人と郊外の渭城まで同行し、そこで別れる習慣になっていた。王維は友人の送別を上の詩で描いている。

ところで、日本の子供は太陽を描くときには、真っ赤な色にする(日の丸のように)。しかし、沙漠民の子供なら、太陽を黄色に塗りつぶすそうである。これは、気象条件の違いによるらしく、子供は見たとおりに描くか、あるいはその民族の太陽に対する固定観念の影響でそうするのだろう。

私が中国での最初の赴任地西安市に来て気付いたことは、晴天にも関わらず、空がぼんやりと霞んでいて、太陽が黄色に見えることだった。それは、中国の他の都市でもあるような、公害による大気汚染によるものかも知れないと初めは思っていた。

あるとき、中国語と日本語を教え合っている劉トンが、彼女の大学西安音楽院の民族楽器の演奏会に連れて行ってくれた。

演奏会が終わり、近くの公園に行った。雨上がりで霧がたちこめているような夜の静寂のなかを二人は散歩した。公園の街灯が点っているあたりだけ霧がくっきりと浮かび上がっているのが見えた。先ほどの古典楽器の優雅な演奏会の余韻と共に、心が昂ってきて、私は思わず叫んだ。

「ロマンチックだね」

「先生、あれはゴミですよ」と劉がいった。

「えっ・・・・・・?」

 疑似恋人同士の気分に浸りたいと思っている私の高揚感を、彼女はつれなくも引きずり落としてしまった。しばらく考えていた私はようやくその意味を理解した。日本語を私から習って間もない語彙不足の彼女は、それが霧ではなくて『砂塵』が舞っているのだと言いたいのだ。

   西安市の生活に慣れてくるに従って、私はこの土地の気候風土への理解が深まった。西安市は黄土地帯の南東部に隣接しているので黄砂が舞っている。また、遠くのタクラマカン沙漠からはるばる砂塵が飛来しているのだ。だから、我が教師宿舎の窓辺にはいくら掃除してもうっすらと細かい砂塵が溜まる。キャンパス内の樹々は砂塵に覆われて土気色になるので、ときどき散水車が水をかけて樹々の緑を蘇らさなければならないのだ。そして、風の強く吹く日には、空は晴れていても曇り空のように、太陽は黄色く見えるのだ。西安市はこんな気候の土地なので、呼吸器系に欠陥のある人には住みにくいとも言われている。

 

王維の詩は、送別の詩として日本にもよく知られているが、それは第三、四句に端的に表現されている。それと比べると、第一、二句は単なる場の設定と情景描写に過ぎない。私は日本にいたときにはそう思っていた。が、第一、二句にこの土地の気候風土が見事に織り込まれていることが分かり、私はこの漢詩がますます好きになった。 

 

 文化の粋を教える教育の日中差

中国語家庭教師の黄誉婷とサイクリングを兼ねて、都心のスーパーへ買い物に行ったときのことである。とある、街角で自動車修理工場の看板が目にとまった。『○○姑蘇修理○○』とあった。

 私は指差していった。

「あの店の名前は、張継の楓橋夜泊にある名前と同じだね」

 すると彼女は直ちに楓橋夜泊を中国語で諳んじた。姑蘇とは蘇州の古名である。

 この詩は日本人も大好きだ。私も負けずに日本式で詠ったが、途中で間違えてしまって、悔しい思いをした。

 

楓橋夜泊 張継                

 

月落烏啼霜満天 月落ち烏啼きて霜天に満つ     

江楓漁火対愁眠 江楓漁火愁眠に対す 

姑蘇城外寒山寺 姑蘇(こそ)城外の寒山寺 

夜半鐘聲到客船 夜半の鐘声客船に到る 

 

 黄に限らず、なぜ中国人の学生は日本人が知っている漢詩なら、たいていスラスラと暗誦できるのだろうか? それは政府教育部が、漢詩を世界に誇るべき中国文化の粋であると位置づけて、小学生のときに徹底的に覚えさせる方針を採っているからである。おそらく、家庭で方言しか話さなかった子供を、小学校で共通語(普通話)を覚えさせる国家政策の一部ともなっているのだろう。

 

 一方、日本の学校教育で和歌を小学生に教えるようなことはないし、せいぜい高校の古文の授業の中に出てくる程度である。私は古文が大嫌いだったし、大学受験にも役立ちそうにないので和歌には無関心だった。

 大学生のときには、教養として『唐詩選』くらい読んだ記憶がある。理科系学部の私でもそうなのに、一方、中国では日本語科の学生でも日本の和歌を趣味として勉強するようなことは殆どあり得ない。だから、詩については、かなり偏った一方通行の文化交流であると言えるだろう。

 ところで、日本の小学生に和歌を覚えさせるような教育が全くないかというと、例外はある。じつは、私の孫が通っている京都の某女子大の付属小学校では、学年が進むに従って少しずつ和歌を暗誦させているのだ。 

 小学校4年生の孫は、百人一首の数首をすらすらと暗誦して見せたので、私は驚いた。その一首に、

――大江山 いく野の道の遠ければ まだふみも見ず 天の橋立

があった。孫の世話を一手に引き受けている家内が我が事のように「どう、おじいさん。すごいでしょう!」と自慢たらしく言った。

 私は、子供のとき『おいちょかぶ』か『花札』をしながら、父が戯れ歌を歌ったことを、ふと思い出して、茶々をいれてやった。

「それの下の句にこんなのがあるのを知っているか。

    ~~まだ踏みも見ず オッカアのキン○マ」

 孫はその意味が分かったらしく、大笑いした。

「もっと、おもしろい和歌があるぞ」と私はインターネットで見つけた傑作替え歌も披露した。「ももひきや 古きふんどし 質に入れ 朝の寒さに ち○こプルプル」

 ふと、向こうを見ると、娘がコワ~イ顔をしていた。

 ――おじいちゃん、そんな下品なことを孫に教えちゃダメ!

 とでも言いたいのだろう。

 

 民族が心を一つにできる共有財産

 小学生の孫に和歌を覚えさせることにどのような意味があるのかを私は知らない。孫は詩の深い意味を理解して暗記しているわけではないことだけは確かである。それは、中国の学校教育で、小学生に漢詩を丸暗記させているのも同じであろう。

 だが、子供の時に一度覚えたことは大人になってもなかなか忘れないものである。だから、中国の大学生が、小学校以後漢詩への関心が無くなっていようとも、有名な漢詩なら今でもすらすらと暗唱できるのだ。私が中学校で覚えたイナ形容詞(国語教育では形容詞・形容動詞)の活用語尾を今でも覚えているように。

 

江西師範大学には、クリスマス晩会とか新年会だとか、日本語科の教師や学生が一堂に集う演芸会があった。こんな時には、日本人教師は必ず何か芸を披露しなければならない。この大学赴任三年目には、安曇野の早春の情景を描いた『早春賦』を歌うことにしたが、ただ歌うだけでは芸がなさすぎる。そこで、一、二番を日本語の歌詞どおりに歌い、三番で、杜牧の『淸明』を中国語で歌うことにした。

 

I              II

春は名のみの 風の寒さや  氷融け去り 葦はつのぐむ

谷のうぐいす 歌は思えど  さては時ぞと 思うあやにく

時にあらずと 声もたてず  今日も昨日も 雪の空

時にあらずと 声もたてず  今日も昨日も 雪の空 

 

III 淸明 杜牧

淸明時節雨紛紛 淸明の時節 雨 紛紛
路上行人欲斷魂 
路上の行人 魂を断たんと欲す
借問酒家何處有 
借問(しゃもん)す 酒家は何れの処に有るかと
牧童遙指杏花村 
牧童 遙かに指さす 杏花の村

上の写真をクリックすると拡大
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ダークダックスの歌はhttp://www.youtube.com/watch?v=B2F4qqn-RG8から引用しました。

 


 中国語の発音はとても難しい(特に四声が)。中国語の家庭教師である黄誉婷と陳亜雪から特訓を受けた。そうして、本番でインターネットからダウンロードしたメロディをバックに歌ったところ、拍手喝采をうけた。特に、三番を『清明』の詩で歌ったのがよかったようだ。

これに気をよくした私は、

「では次に、清明を朗詠します」

と、言ったが、やはり発音にはちょっと不安があった。が、はじめた途端、そんな不安は消し飛んだ。会場につめかけた学生百数十人が一斉に大声で唱和したのである。

中国人が自国の文化遺産を共有して、心を一つにした瞬間だった。かつての毛沢東語録や国家の指導で作り上げたスローガンなどは、時代の流れのなかで廃れる運命にある。しかし、漢詩だけは中国の民衆の中で廃れることもなく生き続けることであろう。それは素晴らしいことではないか! 同時に、世界に二百あまりの国家地域がある中で、発音こそ異なれ漢字という文字媒体を共有している日本人だけが、漢詩を今も愛し続けている。それも、日本人として誇るべきことであると思う。 

 

 日本人の創った漢詩

最後に、私はとっておきの漢詩を一つ紹介して、この章を終わることにしたい。

古来、日本人は漢詩の影響をうけており、漢詩に着想を得て和歌を創作した例もある。例えば、平安時代の歌人大江千里の古今和歌集に収載されている和歌、

――月みれば 千々に物こそ 悲しけれ 我が身ひとつの 秋にはあらねど

は、白居易の漢詩に着想を得たといわれている。

このように漢詩から和歌への流れはあるものの、私が知る限り、和歌から着想を得て漢詩が創作されたり、翻訳されたような例は稀だと思う。

曹洞宗の開祖である道元禅師の和歌は、禅の精神を四季折々の花鳥風月に託して歌いあげ、川端康成によってノーベル賞の受賞記念講演で紹介された名歌としても知られている。

 

道元禅師の和歌

 

――春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり

 

 この和歌をたまたま知った江西師範大の陳が、漢詩に翻訳したらどうなるだろうか、と私に訊いた。そこで、私の友人である日本の渡邊捷弘氏に依頼することにした。彼は現代日本人には稀なる漢詩を創作する人である。それを承けて彼が陳の意見も徴して漢詩を作った。以下に氏の許諾を得て紹介する。

渡邊弘 漢詩(右はその日本語訳)

春櫻笑  爛曼(らんまん)として 春は桜の花笑い

夏鵑山野青  夏、 (ほととぎす)山野青く

玲瓏秋月晧  玲瓏(れいろう)として秋月晧(あき)らかに

白雪冷冬庭  白雪は冬の庭に冷たく

坐庵觀四季  に坐して四季を観ずれば

万象自清泠  万象自ずから清泠(せいれい)たり

 

<参考資料>

(本歌)百敷や 古き軒端の しのぶにも なおあまりある 昔なりけり

(替歌)ももひきや 古きふんどし 質に入れ 朝の寒さに ち○こプルプル

http://yj-essays.doorblog.jp/tag/%E7%99%BE%E4%BA%BA%E4%B8%80%E9%A6%96

より引用させていただきましました。

 

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