7 学生の日常生活

A 消費者よ 強くなれ 

江西師範大学にいた時、テープだけでなくMP3にも対応している新型CDプレーヤーを市内の電気店で買った。しかし、そのコードが短いので、壁のコンセントとの間を繋ぐ『延長コード』も必要となって、学内の超市(スーパー)で買った。ところが、十日前に買ったばかりの延長コードが故障してしまったので、その店へ行って女店員にいった。

「新品と交換するか、修理するか、どちらかにしてもらいたい」

だが店員は、事務的な態度で首を横に振るばかりである。

「一週間の保証期間が過ぎているので、修理店へ行ってください」

 修理店へ行くということは、私がお金を払って修理してもらうという意味だ。中国にそんなルールがあるのかもしれないが、私にはとうてい納得できない。

「延長コードなど、5年や10年は使えるものなのに、たった10日で故障するのはなぜだ。不良品を客に売るなんて、あなたの店は無責任だぞ!」

と、抗議した。だが、店員は折れる様子がなかった。こんな時、中国人は絶対に非を認めたがらず、頑固である。国有鉄道の職員など公務員にこの種の横柄な態度が顕著で、私が一番嫌いなタイプである。

日本語の分からない中国人店員と中国語が分からないヘンな外人の私は、互いに下手な英語を交えながら押問答を続けていたが、こんな時に言葉が通じにくいのは困ったものだ。そのうちに、野次馬(学生たち)がたくさん私を取り囲んだ。

――彼らは、私を同胞の店員を困らせている不良外人だと考えて、敵意を抱いているのだろうか?

いや、純朴で愛すべき江西省の学生にはそんな悪意は無さそうである。彼らは、野次馬根性で、どちらに味方をするわけでもなく、単に「何事が起こっているのだろうか?」と、興味本位で様子を眺めているだけなのだろう。

一人の女学生が、英語で話す私と中国語で話す店員の間の通訳を買って出てくれた。英語科の学生らしい通訳嬢のお陰で、交渉は円滑にすすむようになり、私はますます元気が出てきた。それにはもうひとつ大きな理由と目的があったのだ。

――私の主張は、店員に向けるものだけでなく、いやむしろ、周りの学生に伝えたい。

 そんな願望が我が胸のうちに沸き上がっていた。

日本の工業製品は、半世紀も前(私が子供の頃)までは“安かろう、まずかろう”という評判が外国で一般的だった。しかし現在、自動車電子機器などあらゆる分野の日本製品が、高品質で低価格、そして故障しない、という高い評価を世界から受けている。

それは、主に科学技術の進歩と労働者の高い技術力によるものだ。が、もうひとつ忘れることのできないのは、安くて高品質の製品を要求する『消費者からの強い圧力』があったからなのだと思う。消費者の期待を裏切る不誠実な店があれば、客は二度とその店には行かないし、不良品を製造した会社の製品も買わないという、消費者の厳しい要求が広がってきている。客に見放された店やメーカーは、経営がいきづまり、最後に倒産してしまうだろう。だから、

――お客様は神様です!

という、顧客を大切にする精神を生みだすようになった。こんな “消費者パワー”では、中国はまだまだ日本に及ばない。

さて、話を戻して、あの『延長コード』の問題はどうなったか?

とうとう、店員が折れて、新品と取り替えてくれた。

店員と私の二人芝居を見終わった野次馬たちの多くは、満足げに笑顔を浮かべながら去って行った。中には私と握手する学生すらいたほどだった。きっと、学生たちは私の“ツッパリ”の中から何かを感じ取ってくれたのだろう。

中国社会を改革発展させていくのは、まず現役の大人たちだが、それに加えて、これから社会に巣立っていく若者の力に負うところ大だと思う。

――思慮深くて逞しい消費者は、この学園の中から生まれ育って欲しいものだ!

私はそう念願している。


  ノスタルジックな中国の旧正月

新暦、旧暦の違いはあるが、正月を祝う伝統には日中で類似点が多い。わたしは、春節後の後期授業で作文授業を担当するときには、必ず学生に故郷で祝った旧正月の思い出を書かせることにしている。

大都会に出稼ぎに行っていた親が一年ぶりで故郷に帰って再開することの喜び、家族総出で正月の準備をする賑わい、餃子をたべながら見る大晦の晩会のテレビ中継(日本の紅白歌合戦に相当)、そして爆竹の破裂音で迎える新年、親戚一同が集う新年会と遊び、美しく着飾った晴れ着姿で年始の挨拶回りと先祖の墓参、子供が心待ちにしている壓歳銭(お年玉)などを学生が綴る。いずれも春節を祝う喜びにあふれている。学生の多くが地方出身者であることがかえってローカル色に彩られて楽しそうである。

これらの中には中国独自のものがあるが、私が少年時代に経験した日本の正月の原風景も見られるのが嬉しい。日本の戦後がアメリカナイズされながら経済的発展を遂げているうちに忘れ去ってしまった伝統行事を、中国の学生の作文から改めて思い出すことになり、懐旧の思いに駆られるのだ。

私は、日本の戦後の経済発展を底辺から支えたサラリーマンの一人であると自負している。少なくとも我が息子娘の前ではそう言える。しかし、わたしは、大都会でサラリーマン生活をしているうちに、父母から受け継いだ正月の伝統行事の殆どを無視してしまい、子の世代には伝えていないような気がする。教え子たちの家庭は、我々日本の家より貧しいかもしれない。だが、彼らの方が遙かに素朴で、豊かな正月を祝っていることだけは確かである。


C 中国建国60周年記念軍事パレード

2009年10月1日の国慶節(建国記念日)は、建国60周年の節目の年であり、天安門前広場では大々的な軍事パレードが行われ、胡錦濤国家主席の閲兵を受けた。

朝から、延々と続いたパレードはテレビでも中継され、男女軍人の徒歩部隊、車両部隊、近代兵器を搭載した車が行進し、国民の70%以上が最後までテレビに釘付けだったという。

たまたま私の宿舎に来た数人の学生も最後まで目を輝かせて見ていた。そんな様子を眺めていると、中国国民が革命国家建設に重要な役割を果たした解放軍への揺るぎない信頼感と敬愛の念を抱いていることが感じ取れるのだ。

私もテレビの画面を興味深く見はじめたが、一時間もするともう飽きてしまった。所詮この種の軍事パレードは、共産主義国の国威発揚のためのプロパガンダにすぎないという思いがあるのだ。日本では、無謀な戦争へと導き国家を破滅させた軍隊への不信感があり、自衛隊のパレードはあってもテレビで実況中継をしないし、国民もあまり関心がない。両国民の軍隊に対する信頼感には雲泥の差がある。

軍隊が国民に身近で、大学からも受け入れられている例として、新入生の『軍事教練』がどこの大学でもある。私が新学期に赴任すると、迷彩色の軍服を身にまとった学生がキャンパスを闊歩している姿に出くわし、授業中にも、訓練中の学生の「えいや」という叫び声が外からきこえてきた。新入生が大学での団体生活に適応できるように、軍隊から派遣された若手教官の指導により、9月中の約一ヵ月間軍隊式訓練をうけるのだ。これもまた日本では決して見られない光景である。

 しかし、軍事教練中に規律正しく行動していた女学生は、それが終わると、普通の素朴な若者にもどってしまう。そして、3、4年生になると、派手な衣服姿やハイヒールまで履く女学生まで現れて、キャンパス内では男女が人目もはばからず抱き合っている光景まで稀ではない。折り目正しい軍事教練と日本以上に過激な男女の性風俗との乖離をどう考えたらいいのか、と私は戸惑ってしまう。

 

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