五寸釘の寅吉伝説と網走刑務所

 

■ はじめに

 

 2015年秋に、我が生まれ故郷にある「網走刑務所の旧獄舎」が国の重要文化財に指定された。そこで、網走刑務所に関わる話題を我が少年時代の思い出をまじえながら語ろう。 

 

■ その1 小学校教師が語る「五寸釘の寅吉」の脱獄譚

 私が網走中央小学校5年生のとき、教師を始めたばかりの林先生が担任となった。若くて元気溌剌たるこの男の先生に我々男の子はよくなついており、課外に先生と相撲をとったりしてよく遊んだものだ。 

国語の授業のひとつに「話し方教室」があった。児童は作文や少年・少女雑誌から仕入れた題材を皆の前で発表した。退屈な国語の授業よりよほど楽しかったので、私たちは先生におねだりして、よく「話し方教室」を開いた。 

そんなある日の「話し方教室」の最後に、林先生が、「私にもひとつ面白い話があるんだ」と前置きして、次のように語った。 

 

「網走刑務所に “五寸釘の寅吉” という強盗殺人犯が服役していた。寅吉はある日、脱獄した。監視のわずかな隙をついて独房を抜け出し、高い刑務所の塀を登り、そこから外に、えいっ、とばかり跳び降りたんだ。ところが運わるく地面に五寸釘が落ちていて、寅吉の足にグサリと突き刺さったからたまらない」

刑務所の塀に登った寅吉。あとは娑婆に跳び下りるだけ。そこに五寸釘が
刑務所の塀に登った寅吉。あとは娑婆に跳び下りるだけ。そこに五寸釘が

 「ええっ! 痛そう~」と私はわがことのように身震いした。「ぼくなんか、とげが刺さっただけでも痛くてたまらないのに、釘が刺さったらどうなるんですか?」 

「痛い、痛くないっていっているときじゃないさ。寅吉は足に釘を突き刺したまま、刑務所の裏山へと逃げた」 

「でも先生、誰も寅吉のことに気付かなかったのですか?」と学友がきいた。 

「もちろん、刑務所の監視員がすぐに気づいて、刑務所員が総出で追いかけたよ。それから、警察署にも連絡し、町の中には非常線が引かれて、水も漏らさぬ厳重警戒さ。なにしろ、寅吉は凶悪殺人犯だから、町の人に危害があってはならない。そして、刑務所と警察が一体となって、山狩りをやったんだよ」

 

ここまで聞いていた私たちは、目を輝かせていた。寅吉を恐れてはいたが、ことの顛末がどうなるのかと、興味津々で期待に胸を膨らませていた。林先生の講談調の語りはいよいよ佳境に入っていく。 

 

「追っ手から逃れるために、寅吉は道なき道の山中をイノシシのように駆けにかけ、ヒグマのように走りにはしりまくったな。雨が降ってくるし、身体は冷え込むし、そのうえ釘が刺さったままの足は痛む! だが、そんなことにかまっているときじゃない。三日三晩逃げににげ回った。そして四日目の朝がきて、寅吉はようやく一息ついた。『これで逃亡に成功した。オレは自由の身になったのだ』と微笑んだのさ」 

 

 そうか、やっぱり脱獄に成功したんだ、と私たちは互いに笑顔で顔を見合わせた。                          

 

「雨がようやく止んだが、あたりは深い霧に覆われている。そのうちにオホーツク海から北風が吹きつけてきて、霧が徐々に晴れてきた。と、向こうに塔のようなものがうっすらと墨絵のように浮かびあがった。『あれは何だ?』と、寅吉が眺めているうちに霧が晴れ上がった。『ヤバイ、刑務所の物見櫓だ!』と寅吉が叫び終わるかおわらないうちに、刑務所員が大勢かけつけてきて、寅吉は “御用” となったのさ」 

「な~んだ、つまんねェ」

 

 私たちは、あっけない幕切れに、期待を裏切られて不満だった。今風に言えば、水戸黄門さんの勧善懲悪テレビドラマのようで、“悪が栄えることはない"ーーということか? しかし、当時の子供は先生の話を疑うことは許されなかった。終業ベルが鳴って林先生の講談は終わり。 

その日、学校から帰ると、父にそのことを訊いてみた。が、父は笑いながら言った。 

 

「先生がそう言っているのだから、本当だろうよ!」 

 

実は、父の姉の家が網走で手広く呉服屋を営んでおり、父はその店の大番頭だった。皇室御用達ならぬ、刑務所御用達で衣類納入のために父は時どき刑務所に出入りしていた。今にして思えば、当時の刑務所の状況を詳しく聞いておくべきだったが、子供の私には刑務所ないのことなどさほど興味はなかったし、父も子供に刑務所のようなヤバイ所の話をするのが、はばかられたのであろう。既に他界している父にもう聞き出すことはできない。

 

こうして、私には、凶悪犯・故郷の刑務所・脱獄・五寸釘を刺したままの逃亡・・・・と、どれもこれも魅力的で刺激的だった。“五寸釘の寅吉” の脱獄譚が強い印象として脳裏に刻まれたまま、後々まで持続することになった。

 

ただし、逃げたつもりが刑務所の門前に “逆戻り” したなんて、寅吉の間抜けぶりには少々不満が残ったのだが。 

しかし、これも網走の地形を理解するためによかったのかもしれない。先生は最後にいっていた。

 

「北の大地網走は、北側がオホーツク海に面して湖も川もあり、残りの三方をぐるりと山で囲まれているんだ。だから、脱獄犯は山中を駆けにかけたつもりでも、けっきょくは、網走の周りを一巡するだけだったのさ!」 

 

――そうか、網走刑務所は、世界に誇るべき最適地にあるんだ!

 

私はそう信じて疑わなかった。

 

私は中学二年生から京都に移り住んだ。京都の学友の中では、古い網走のイメージである刑務所のことなど知る者があまりおらず、私が北海道から来たので、「森野、お前はアイヌか?」と希に訊かれる程度だった。千年の都に住む京都の子供は、北海道のことなどに興味が無かったのだ。しかし私が、相撲に強くて、都人(みやこびと)の子孫をつぎつぎに投げ飛ばすものだから、「やっぱり北海道のやつは “荒くれ者” に違いない」と思ったことだろう。 

 大学生のころに、高倉健さんの『網走番外地シリーズ』が始まり人気を呼んでから、【網走=刑務所】のイメージが定着した。きっと網走市民には迷惑なことだったろう。私も網走出身だということで、刑務所服役犯の子であると疑われたことがある。そんなときには口元に少々ニヒルな笑みを浮かばせて言ったものだ。 

 

「そうさ、オレの父ちゃんは、強盗殺人未遂、“ムショ” にくらいこんでいたのさ。母ちゃんは幼いオレと妹をつれて網走に行き、父ちゃんの出所を待っていた。三年前に、ようやく仮釈放となって京都にやってきた。あの頃を思い出すとオレは・・・・」 

 

 これを信じた学友は私を畏敬と憐憫の念で見つめていた。が、真実を明かすと、「なんだ、オレに一杯食わせやがって!」と大笑い。そのついでに、『五寸釘の寅吉』も紹介した。 

 

■ その2 「五寸釘の寅吉」は実在したか? 

かくして、私は成人してからも、網走の思い出の一つとして『五寸釘の寅吉』と刑務所を結びつけるようになっていた。今や我が胸の裡で、寅吉は故郷の英雄にまで膨らんでいる。 

だが? と、私には疑問もあるのだ。いくら網走の地形によるとはいえ、必死に逃げた脱獄犯が易々と刑務所に舞い戻ることなどあり得るのか? しかも五寸釘といえば、15cmもの巨大な釘である。そんな物を突き刺したまま三日三晩、山中を駆けぬけることなどできるのだろうか?

 

長い間、疑問であったことが、最近インターネットで調べた結果、明らかになった。 

以下はインターネット「ホームページ 博物館 網走監獄」に記載されている文の要約である。 

(もし、詳しすぎて読む暇がないと思われる読者は、監獄に入った回数と脱獄回数だけをご記憶願おう。それだけでも驚異的な記録であることがお分かりだろう) 

http://www.kangoku.jp/data7.html 

 

 ●監獄秘話・明治の脱獄王「五寸釘の寅吉」

 明治の時代に生き、8度の脱獄をやってのけて伝説を生み出したのが「五寸釘の寅吉」である。「五寸釘の寅吉」こと西川寅吉は、安政元年(1854年)、現在の三重県に百姓の次男として生まれた。

 

 寅吉が初犯をおかしたのは14歳の時で、賭場で殺された叔父の仇を討とうと敵の親分と子分4人を斬りつけ火を放って逃げた。

 

1回目の服役と脱獄】逮捕後、無期刑となって三重の牢獄に入れられた寅吉は、仇討ちの相手がまだ生きていることを知り、牢獄を脱走。仇を求めて各地の賭場から賭場を渡り歩くうちに、すっかり渡世人の垢がしみついていった。

 

2回目の服役と脱獄】ある時、賭場が手入れをくらい、寅吉は逮捕されて三重牢獄に逆戻りしたが、そこも脱獄をした。

 

3回目の服役と脱獄】逮捕後、秋田の集治監(昔の刑務所名)に移送された。が、寅吉は、ここもあっさりと脱獄してしまった。故郷の三重に向かって逃走中に、静岡のある賭場でイカサマの手口で荒稼ぎをした。乱闘になり、数人に傷を負わせる事件を起こした。

 

4回目の服役と脱獄】巡回中の警官に発見された寅吉は、逃走中路上で板についた五寸釘を踏み抜いてしまったが、そのまま12キロも逃走結局、力つきて捕まった。

 

5回目の服役とこの間に「3度!」も脱獄】寅吉の身柄は遠い北海道の地・樺戸(かばと)集治監に送られることになる。寅吉の名は全国に知れわたっており、彼を畏敬する囚人たちの援助を得て、樺戸集治監を三度にわたって脱獄を繰り返した。一度目の脱獄では、構内作業中、濡らした獄衣を塀にたたきつけて一瞬の吸着力を利用し、塀を乗り越えたという。人並みはずれた彼の脚力は捜査人を翻弄した。今日札幌に現れたかと思うと、次の日は留萌と、神出鬼没。しかも豪商の土蔵から盗んだ金は、バクチで湯水のように使う一方で貧しい開拓農民や出稼ぎ中の留守宅に投げ込んだりしたため、一躍有名になったばかりでなく、庶民からもてはやされてヒーローになっていった。三度目の脱獄中に福岡で捕まった。

 

6回目の服役と脱獄】北海道の空知集治監に収容された。だが、ここも間もなく脱走する。

 

7回目の服役】さすがの寅吉もこの時40歳の峠を越して体力も衰えていたものと見え、わずか一週間で逮捕されて、網走集治監(後の「網走刑務所」)に服役した

 

  かくして寅吉の脱獄は総計8回と、前代未聞の脱獄歴である。しかし、網走に来てからの寅吉は沈黙した穏やかな生活に入る。監獄で働いて得たわずかな金を、故郷の妻子に送金し続け、手紙も書き送っていたという。

 

大正13年、ついに72歳の寅吉は長い獄中生活を終える。が、人気者の彼は、出所後に興行師に利用されて、「五寸釘寅吉劇団」という一座を組み、全国を巡業した。最後には故郷の息子に引き取られて、平穏な生活の中で安らかな往生を遂げている。

 

 

 

 以上の実録で、私の疑いは晴れた。寅吉は脱獄犯として実に輝かしい経歴の持ち主ではあるが、残念なことに(?)網走刑務所は脱獄していない。ただし、「4回目の服役中に脱獄し、逃げる時に路上で板についた五寸釘を踏み抜いて、そのまま12キロも逃走したが力つきて捕まり、以後「五寸釘の寅吉」の異名がつけられた」とある。ここが興味深い。五寸釘を足に突き刺したまま12キロも逃走したのは、「明治の脱獄王」寅吉の面目躍如たるものがあり、スゴイではないか! しかし、このことからも、林先生の話にあるような、“道なき道の山中を三日三晩走り抜ける” のは不可能だったといえるだろう。

 

それでも、林先生の語る「五寸釘の寅吉」の英雄譚も中々よくできている話ではないか! これほど有名で、網走刑務所にも服役していた彼のことを、網走の町の人も噂で知っていたに相違ない。寒い北国の夜長に、赤々と燃えるルンペンストーブ()の周りに集まって、暇つぶしの炉辺談義をするには、彼のエピソードは恰好の話題だったろう。林先生が寅吉の実話をどれほど知っておられたかは知る由もない。だが、私たち悪童が「話し方教室」をしばしは開いて、少年雑誌(「少年クラブ」や「漫画王」)から集めたネタを想像力たくましくして脚色し、面白いホラ話に仕立て上げては、学友から拍手喝采を浴びていたのだ。これを聴いていた林先生が、

 

――ガキ共に負けてはいられない。ひとつオレもとっておきの話をして、小僧っ子どもを驚かせてやろう!

  

と、考えられたのはあり得ることではないか。そして、林先生の虚実取り混ぜた「五寸釘の寅吉の英雄譚」に、私たちはまんまと乗せられたというわけだ。ちなみに、私は十数年前に、林先生に時候のご挨拶のお手紙をさしあげたことがある。もう定年退職されていた先生は、「海釣りが趣味だ。そのうちに釣り上げた秋味(鮭)を送ろう」とお返事をくださったが、それもないまま、他界されている。

  

() ルンペンとは、ボロの服をまとってうろつく人。「浮浪者。乞食。失業者」 という意味のドイツ語からきたらしい。私が少年時代の網走では、暖房用と煮炊きに石炭をいれたストーブを使っていた。一日に一度は取り換えなければならないので、ブリキのストーブは常時二つ用意されていた。一方が使われているとき、もう一つはスペアとして放置されており、つまり、失業中ということで、「ルンペンストーブ」と呼ばれていた。今の時代は灯油をつかっており、石炭をつかうこともないだろう。

  

インターネット情報による寅吉伝から、彼の実話を浪曲にでも仕立て上げたら結構面白いと思える。「森の石松」で有名な広沢虎造が存命ならやってもらいたいほどである。寅吉には、人情に篤い江戸時代の渡世人といった雰囲気がある。また、刑務所を出所後、世間の人気に便乗してどさ回りの劇団まで作っている。ちょっとおだてに乗りやすいお調子者のお人好しでもあるが、自分の過去の行状に罪悪感はあまり無かった人物のようだ。

 

ともあれ、網走刑務所は、施設・警護共に十分行き届いており、脱獄が日本一困難なところであるとされている。だがもし、寅吉が若い頃に網走刑務所も収監されていたら、脱獄し、成功していたのかもしれない。スポーツ選手のように、脱獄には知力と、とりわけ体力が不可欠である。老いを感じる歳になって彼が網走に来たことは、刑務所長には幸いした。結果として、網走刑務所は脱獄困難な牙城としての栄光を保持し続けることになる。

 

■ その3「旧網走監獄」重文指定へ(国内唯一現存の五翼放射状舎房)

 ーー文化審議会は20151016日、網走市の「博物館網走監獄」に保存されている旧網走監獄など関連施設12件を重要文化財に指定するよう馳浩文部科学相に答申した。近く答申通り指定される見込みで、刑務所だった建物が重文になるのは初めて。旧網走監獄は、明治期の現存する数少ない木造監獄建築で、5方向に伸びる「五翼放射状平屋舎房(受刑者の居室)」とその内部の中央見張所、庁舎、教誨堂が対象となった。特に放射状の木造舎房が完全な形で残っているのは国内唯一で、歴史的な価値が高い。

 

 と報道された。

 

 「五翼放射状平屋舎房」の解説(インターネット情報より)

  五翼放射平屋房(右図)は、明治45年から昭和59年まで網走刑務所の獄舎として使用された建物である。見張り台を中心に平屋建ての5つの舎房が放射状に5棟接続する構造で、監視カメラが無かった時代に最小限の監視人数で徹底した監視が出来る画期的なアイディアだった。この構造は、ベルギーのルーヴァン監獄を模倣し建築された。

 

 なお、大連交通大留学生の友人が次のような情報も伝えてくれた。 

 --フランス革命が起きた後、皇帝軍が市内のテロや反逆者を容易に取り締まるために、街を強制的に8角形に作り直した。その中心にあるのが現在パリにある「凱旋門」である。「網走刑務所の五翼放射平屋房」はそのアイディアを利用したという。 

 この話を友人が網走刑務所を見学したときにも、案内係から聞い記憶があるそうだ。 

 また、友人は過日、日露戦争の激戦地「旅順」へ旅行したときに、「旅順刑務所」を見学したことがあるという。この刑務所は、はじめロシア帝国が建設したが、日露戦争に勝利した日本が引き継いだ。朝鮮や満州における多くの反日活動家を政治犯として逮捕・収容する必要があるために拡張工事がなされた。そのときに「網走刑務所の五翼放射平屋房」の形式を模倣したという。なお、「旅順刑務所」で処刑された政治犯の中には、ハルビン駅頭で伊藤博文を暗殺した「安重根」がいた。 

 

■ その4 網走刑務所からの脱獄犯がいた! 

林先生の語る「五寸釘の寅吉の脱獄譚」に関しては、<その2>で寅吉が網走刑務所に収監されていたことがあるが、脱獄はしていないことを明らかにした。

佐久間の脱獄を想像した蝋人形 かれは脱獄の知能犯にして怪力の持ち主。また頭が入るスペースさえあれば、全身の関節を脱臼させて、容易に抜け出すことができた。写真は「HP博物館網走監獄」より
佐久間の脱獄を想像した蝋人形 かれは脱獄の知能犯にして怪力の持ち主。また頭が入るスペースさえあれば、全身の関節を脱臼させて、容易に抜け出すことができた。写真は「HP博物館網走監獄」より

 しかし、網走刑務所から脱獄に成功した服役者が確かにいたことは、作家・吉村昭の小説『破獄』(新潮文庫)に詳述されている。この力作を読んで、主人公の脱獄犯「白鳥由栄」(仮名・佐久間清太郎;以後仮名で紹介する)のものすごさに圧倒された。「五寸釘の寅吉」もすごいが、佐久間の方がもう一段優れていると感じたほどである。

 

佐久間の脱獄歴の詳細は小説をお読みいただくとして、下に略記しておこう。

 

彼は青森で仲間と盗みに入り、見つかって逃走中に殺人。事件は迷宮入り直前に敏腕警察署長によって解明され、彼は数年後に逮捕された。

 

1回目の服役と脱獄】無期懲役の罪で昭和11年に青森刑務所に服役するも、脱獄した。東京の小菅刑務所の所長に自首。 

2回目の服役と脱獄】秋田刑務所に服役中、昭和16年に脱獄。 

3回目の服役と脱獄】昭和18(1943)年から網走刑務所に服役し、脱獄。地熱のある廃坑に潜伏して極寒の冬をしのぎ、6ヶ月間も逃亡を続けたが、北海道の中央部の砂川町で発見された。殺人を犯すも逮捕。なお、五寸釘の寅吉のように逃走中に足を怪我するようなことは一切なかった 

4回目の服役と脱獄】札幌刑務所に服役し、脱獄。逃走中に路上で二人の警官に不審尋問を受けたが、日本刀を所持していたにも関わらず、自ら名前を名乗って逮捕に従った。「巡査の穏やかな態度にほだされて、逃走心が失せた」と本人は後に述懐している。 

5回目の服役】昭和21年に脱獄を恐れたアメリカ軍GHQのつよい指示で、施設が完備している東京府中刑務所に護送され服役した。刑務所長の温情あふれる扱いに心和んだ刑務所生活を送り、脱獄することがなかった。刑務所長に「なぜ、逃げないのだね。その気になれば、いつでも逃げられるだろう」と訊かれると「もう疲れましたよ」と彼は返事したそうである。小説中に以下のようにある。 

 

――彼の人間としての力は、その間に燃えつきたのではないだろうか。府中刑務所に収容されたのは、たまたまその時期で、思わぬ処遇に反抗心もうすれ、脱獄への執念が急に萎えてしまったのかも知れない。 

佐久間は昭和36年に仮出所した。その後もまっとうな生活態度で余生を送り、71歳で心不全のために死亡。 

 

以上の様に、脱獄4回のうち三回目が網走刑務所に関わることである。佐久間の脱獄によって、明治時代以来破られたことのない、難攻不落(?)を誇る<網走刑務所>の栄光はもろくも崩れさったことになる。 

小説中に、亀岡という刑務所員が登場する。彼は、網走刑務所時代に「看守長」として勤務していたときに、佐久間の脱獄に遭遇した。その後、札幌刑務所に「戒護課長」として転勤を命ぜられ、その勤務中に佐久間が服役してきた。亀岡は脱獄阻止にあらゆる努力をしたにも関わらず、佐久間の脱獄を許すことになった苦い経験を持っている。 

吉村昭は、亀岡の思いを描きながら、以下のように佐久間の人物像も浮き彫りにしている。 

 

――亀岡は、彼の内部に佐久間に対する畏敬に似た感情がきざしていることに気づき、狼狽した。佐久間は、学歴などもなく、外観的には鈍重な男に見える。これに対して、十分な教育と経験をそなえた刑務所の幹部や老練な看守たちが、あらゆる対策をねって逃走を阻止しようとつとめてきたのに、彼は意表をついて脱獄する。明治以来、破獄をはたした者は多いが、佐久間のように緻密な計画性と大胆な行動力を兼ねそなえた男は皆無であった。強盗致死の罪で無期懲役刑に処せられたのが悲劇というべきで、彼の人間としての能力は、破獄にのみ集中されている。もしもその比類のない能力が他の面に発揮されれば、意義のあることをなしとげたにちがいない。彼が悲運な男にも思えた。

佐久間が脱獄したときの独房 監視員の覗き窓を枠(矢印)ごと外して逃げた。枠を堅く締め付けているネジ釘を味噌汁で腐食させて外したと言われている(HP博物館「網走監獄」より)
佐久間が脱獄したときの独房 監視員の覗き窓を枠(矢印)ごと外して逃げた。枠を堅く締め付けているネジ釘を味噌汁で腐食させて外したと言われている(HP博物館「網走監獄」より)

 以上の記述で佐久間の能力の高さがよく分かるが、彼のたぐいまれなる脱獄技術についても小説の中で詳述されている。佐久間は、網走刑務所の堅牢で監視が厳しく誰も抜け出すことが不可能と思われた独房で、刑務所特製の手鍵・足鍵を外す手品師のような技術、独房からの脱出口を密かに作り出す巧妙さ、監視人を欺く心理作戦、数少ないチャンスに刑務所敷地内の配置を的確に脳裏に刻み込む記憶力、そして逃亡中の細心の注意力に優れ、一口に彼を形容すれば「知力あふれる人」とも言えよう。

 

 <その2>で引用した「ホームページ 博物館 網走監獄」にも佐久間が実名で紹介されている。それによると、五寸釘の寅吉が「明治の脱獄王」に対して、佐久間は「昭和の脱獄王」と形容されている。時代背景がことなり、刑務所の脱獄対策の優劣もあるので、脱獄回数の多寡はさほど問題ではない。むしろ、前者が浪曲の主人公にでもなりそうな大衆性受けのする人間なのに対して、後者は現代スリラー小説に登場してもおかしくない得体の知れない知性を秘めた不気味な人物である。

 

このように、五寸釘の寅吉と佐久間とはかなり性格がことなるが、類似性も見られる。老いてからは人間性に目覚めて模範囚として服役を終え、釈放後も人並みの生活をしながら死んでいったあたりには共通点がある。度重なる脱獄の見事さに大衆から英雄扱いを受けたのも類似している。 

佐久間の場合、五度目の逮捕が終戦直後の日本の混乱期にあたり、アメリカ進駐軍の支配下に置かれていた日本国民の鬱屈した心理状態にも関係していたようだ。 

小説に以下のように記されている。 

 

――(終戦後まもなくの頃)過去に三度も破獄し、またも脱獄をはたした佐久間に対して英雄視するような傾向もみられた。食料をはじめ生活必需品は容易に入手できず、米軍はすべての権力を手中におさめ、殺人、強盗、強姦事件が続発しているが警察力は無力でそれを傍観しているにすぎない。暗い世相の中で、人智をこえた方法で獄を破った佐久間の行動に、一種の爽快感をいだいていたのだ。 

 

こうして、林先生が語った「五寸釘の寅吉英雄譚」は、五寸釘を足に刺したまま逃走した寅吉と、網走刑務所を脱獄した佐久間との合作によって作り上げられたと見るべきだ。そして、二人は、共に希代の英雄として、網走の人々に語り継がれていくだろう。 

 

■ その5【後記】 

 読者諸氏の故郷には、オラが町の偉人・賢人・英雄といった人がいるだろう。私にとっては、ネガティブなイメージの人物が “オラが町の英雄” である。しかし、網走の市民にとっては、この種の無法者が収容されている「網走刑務所」という存在そのものが、迷惑なものだった。それさえなければ、山、川、湖、海と美しい大自然に恵まれた町なのだから。戦前のある時期には、刑務所名を “網走”とは違う名前にして欲しい(例えば、所在地の名をつけて「大曲刑務所」のように)と国に陳情したが、認められなかった経緯があるほどだ。 

 しかし、平和な時代を迎えて、刑務所のイメージも様変わりしている。日本が豊かになり旅行・観光ブームの中で、かつては忌まわしい存在だったものが、観光名所の役割を担うことが多々ある。たとえば網走では、2月になれば「流氷」がやってくる。この時期、漁師は船を出すことができないし、最も冷え込む酷寒(北海道人は「しばれる」(凍りつくの意)と形容する)の時を迎えるので、市民は流氷を「白い悪魔」のように忌み嫌っていた。が、今では「流氷祭」があるそうだ。寒い中を、本州からわざわざ「流氷」を見にくる観光客がいるとは、 時代が変わったものだと思わざるを得ない(「北国のロマン」を求めてなのだろうか?)。 

 

網走刑務所も同様で、少年の私などは近寄りもしなかったところが、網走一の観光名所になっている。そして、刑務所を建て替えると同時に、五寸釘の寅吉や佐久間清太郎がいた旧い建物が、「博物館 網走監獄」として観光客に開放されるようになった。そして、エッセイ中に写真で示したように、佐久間のいた独房や彼の逃走中の蝋人形まであるようだ(囚人の「常食」まで試食できるというのだから、笑ってしまう)。私は網走には40年以上行ったことがないが、機会があれば是非刑務所を訪れてみたいもだ。そして、土産には「五寸釘寅吉煎」ってやつを! 

 

私は13歳に網走を去ってから、もう半世紀以上も経つ。今は親戚が一つあるだけ、また年賀状を交換している幼友達が二人いる程度で、思い出のよすがとなりそうなものは数少なくなった。だから、網走はもう我が故郷とはいえなくなってしまっている。最も長く過ごしたのは京都の西陣で40年間。しかし、ここにも心通わせることのできる人がいるわけではないので、京都の西陣も故郷とは言えない。大津の現住地に住んでからの20年間の半ば以上は、中国に行っており、隣人の名前すら知らない。家内が私の帰りを待ってくれているだけで、竹馬の友も茶飲み話のできる相手もいるわけでもなく、老後の安住の地とは言えそうにない。かくして、私は、故郷喪失者ではないかと思えてきた。 

会社を定年退職したとき、「これからは、日本語教師になって、どこか外国に行こうと思っています」と言ったところ、ある人がこう質問した。

 

「永年会社に勤めあげて、退職金をもらい、年金もでるのに、何を好きこのんで未知の外国暮らしをしたいの?」

 

 こういわれると私は返答に窮してしまう。しかし、中国で暮らしてみて、これで良かったのだと思っている。故郷喪失者にとって、日本の何処にもっと住みよいところがあると言えるのだろうか? 

 佐久間清太郎こそ、本物の故郷喪失者だ。人並みに結婚し子供まである彼が、三十歳頃に、故郷近くで犯罪をおかし、以後半世紀近くの間、五ヵ所の刑務所で暮らしていた。脱獄して娑婆の空気を吸えた期間は僅かに合計三年間(逃亡生活はムショ暮らしよりもっと困難であっただろう)。雑居房で仲間と暮らしたり、労働を共にしている普通の囚人と違い、逃亡の恐れのある危険囚として独房で暮らしていた。生涯に4度も脱獄したとはいえ、その一時期を除いては孤独な毎日が延々と続いていたのだ。 

 

――人間、何かをしていなければ、また何か目的を持っていなければ、とても生きていかれない。だから、彼は脱獄を最大の目標とし、生き甲斐としていた。そして、束縛の無い自由への渇望も! 

 

それが、彼を脱獄へと駆り立てたようだ。

 温情あふれる府中刑務所長の計らいで、佐久間は家族との絆をとりもどそうとしたが、妻の拒絶により果たせなかったという。彼自身も釈放後に、故郷を訪ねたことがあったようだが、やはり妻に会うことはできなかった。ようやく、我々に近い人間性を垣間見せてくれた彼の最晩年に、自分の身一つすら養うことが困難になっている彼の寂寥感が惻々と私の胸に迫ってくる。                      

 

 先日、ロバート・デ・ニーロの映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ニューヨーク」を観た。ユダヤ系マフィアの映画だったが、ラスト・シーンで、愛すべき人も語り合う友人も失って老境を迎えたデ・ニーロ扮する男が、麻薬窟でアヘン・タバコを吸いながら追憶に耽っている顔が佐久間清太郎と重なってきた。 

 佐久間は浅草で映画を観ている最中に発作でたおれ、病院に運ばれて翌日死亡した。享年71歳だった、と結び、吉村昭の小説「破獄」は終わっている。

この絵はインターネットにより引用しました。
この絵はインターネットにより引用しました。

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