3 アカシヤの大連

わたしは大連に来て、3つほど是非訪ねてみたいと思っていることがある。

一つは日露戦争に関わる戦場を訪ねること(旅順訪問は後ほど紹介)。

その二、三番目は、清岡卓行の小説『アカシヤの大連』に関わるものである。清岡は、日本の租借地であった大連で、少年青年期を過ごした思い出を私小説風に描き、1970年に第62回芥川賞を受賞した。彼が懐古的に描いた大連の諸処を訪ねたいと思ったのが第二の希望でだった(これも後述)。

第三番目は、彼の小説の題名にもなっている『アカシヤ』の花を見ることだった。年配の方は、昔、西田佐知子の「アカシヤの雨がやむとき」という歌をしっているだろう。興味のある方はYouTubeの以下のURLをクリック、

https://www.youtube.com/watch?v=RhZs071m_Ns (但し、YouTubeは中国では言論統制のために見ることができない)

そのアカシヤは北国の花というイメージがあるが、大連市では五月の下旬に開花期を迎え、市内のあちらこちらで白い花を咲かせる。この時期、大連ではこの花名にちなんだ『アカシヤ祭り』で各種イベントが開催される。日中韓対抗囲碁大会もその一つで、私が所属する交通大学の囲碁クラブの仲間が参加することになっている。優勝賞金は千元(一万六千円)だが、例年中国人が優勢だったとのことだ。

5月17日(土)には、そのイベントの一つとして、『第12回大連国際徒歩大会』が開催された。我が校の留学生仲間が参加して撮った写真を下に示す。この大群衆の中におそらく日本人観光客も混じっているのでしょう。

『徒歩大会』の方に多くの大連市民と日本からの観光客が吸い寄せられたためか、同日、わたし独りで訪れた『正仁街』は閑散としており、心ゆくまでアカシヤを堪能することができた。この通りには、アカシヤの街路樹がたくさんあることで知られ、別名『アカシヤ通り』と呼ばれている。

 正仁街は、オリンピック公園の近くにあり、幹線道路『中山路』と交差したところからはじまる。

道の両脇の街路樹がすべてアカシヤの樹である。見上げと、葉間に花が垣間見えるといった感じで、花だけが樹に満ちあふれているソメイヨシノとは好対照である。普通の樹の花は葉の間に咲いているものなのだろう。今年は春の訪れがやや早かったためか、散りかけており、花びらがひらひらと舞い降りている様子は桜と同様だった。


清岡卓行は小説『アカシヤの大連』でこう書いている。

 

五月の半ばを過ぎた頃、南山麓の歩道のあちこちに沢山植えられている並木のアカシヤは、一斉に花を開いた。すると、町全体に、あの悩ましく甘美な匂い、あの、純潔のうちに疼く欲望のような、あるいは、逸楽のうちに回想される清らかな夢のような、どこかしら寂しげな匂いが、いっぱいに溢れたのであった。

 

私もこのアカシヤの花の甘い香りを嗅いでみたかったが、正仁街は自動車があふれている町の中にあるためか、香りがほとんど漂ってこなかった。森の中ではアカシヤの香りがする?(後述)。

 

街角に焼き芋屋があったので、一つ買い求め立ち食いした。腹が減っているわけではなかったが、写真を撮りたいので(モデル料として)、小振りの芋を4元(65円)で買った。面白いことに焼き芋屋のオヤジが暇を持て余しているのか(あるいは客を呼び寄せて芋を買わせるためか?)、将棋をやってた。中国式将棋では、駒の名前が日本の将棋と同一のモノもあるが、ルールはかなり違うようだ。清岡自身もまた彼の父も大連でよく囲碁と将棋をしたそうで、その将棋は日本式だったでしょう。

 

中国式将棋は、盤面中央の境界線に『楚河、漢界』と書かれており、それは秦末に項羽と劉邦が覇権を競い合った故事にちなんだもので、庶民の娯楽にも伝統を感じさせて面白い! 私が写真を撮ったときには、二人の対戦者だけだったが、帰りに再び立ち寄ると男たち3人が観戦していた。

中国では歩道や公園でよく将棋をしているのを見かける。野次馬が周りを取り囲んでいて中が見えなくても、大きくて丸形の駒を気合いもろとも盤面に叩き付ける音が響くので、将棋だとすぐわかる。日本でも、かつては縁側や軒先の床几に腰掛けて将棋を指していたものだが、そんな光景も今はなくなった。

少し先に古風な調度品が屋外に設えてある珈琲館らしきものが見えた。ちょっと歩き疲れたのと、焼き芋を食べたばかりなので、美味いコーヒーでも一杯飲むことにした。ところが近寄るとそれは家具屋だった。『紅木家具館』と看板にある。

ウイキペディアによると、紅木(こうき)はインド・スリランカが原産地で、中国では高級家具の材として、また日本では三味線の棹に使われるそうだ。

更に先を進むと、交差点の道路標識に『槐花大道』(“ファイフア”大道)とあった。つまり、アカシヤの中国名が “槐花” である。旅行案内書に、この通りには古い家並みが保存されているとあるが、それらしき家はほとんど見られなかった。最近どんどん取り壊されているのでしょう。

これも都市化(近代化)のなせるわざで仕方のないことかもしれないが、ついでにもう一つ困った問題を紹介しておこう。

右の写真でわかるように、歩道は駐車で埋め尽くされている(更に、車道の片方も駐車)。だから、人は車道の片隅を歩かねばならない。これでは大連観光の名所『アカシヤ通り』の看板に偽りありといいたいのだが、中国にいる限り、我慢しなければならない。もっと車の往来が激しい大道で車道の縁を歩くのは危険で、日本では考えられないことだ。

アカシヤの話題に戻ろう。

アカシヤの花は高木から垂れ下がっているので、『藤の房』のように見える。花弁の詳細がわかりにくいので、帰ってから、インターネットで調べてみた。ウイキペディアによると上図右のような可憐な白い花弁である。ただし、アカシヤの花は「白」と「薄紫」の二種あり、私には薄紫の方は藤の花と見紛うほどだった。

ところで、ここまで『アカシヤ』と書いてきたが、じつは正式名は『ニセアカシヤ』なのだそうだ。

清岡は愛してやまない大連のアカシヤが “にせ” アカシヤであったことに大いに不満であったようで、小説で以下のように書いている。

 

中学校の三年生のときであったか、彼(清岡のこと)は学校の博物の授業で、先生からアカシヤについて教わった。それによると、大連のアカシヤは、俗称でそう呼ばれているので、正確には、にせアカシヤ、いぬアカシヤ、あるいはハリエンジュと呼ばなければならないということであった。そして、大連にも本当のアカシヤが二本ほどあり、それらは中央公園の東の入り口に近いところに生えていて、こういう形をしているということであった。

 彼はその日、学校を出てから、電車に乗らずに歩いて帰った。一番の近道を歩いて帰ると、途中で、ちょうどそのだだっ広い中央公園を通ることになるのであった。

 彼は、しかし、本物の二本のアカシヤを眺めたとき、安心した。なぜなら、にせアカシヤの方がずっと美しいと思ったからである。(中略)彼はそのように遠い日のささやかなエピソードを、「にせ」という言葉が不当にも、ある生命の自然な美しさにかぶせられていることに対する、一種の義憤を通じて想い起こしていたのだった。どこの愚かな植物学者がつけた名前か知らないが、にせアカシヤから「にせ」という刻印を剝ぎ取って、今まで町のひとびとが呼んできた通り、彼はそこで咲き乱れている懐かしくも美しい植物を、単にアカシヤと呼ぼうと思った。

 

わたしも、このリポートで清岡に倣って、単に「アカシヤ」と呼ぶことにしよう。

ところで、大連市内の地名は現在と清岡が過ごしていた戦前とは名前が変わっている。そこで、小説『アカシヤの大連』で使われている地名を頼りに、インターネット情報とも照合して、新旧の地名を下の地図に示した。

  

清岡が「ほん」アカシヤを見にいったという、『中央公園』は現在 労働公園 と呼ばれている。じつは、この大広場と中央公園に囲われている南東地域が、旧日本人居住区であったと考えられる。清岡は小説の中で、『弥生ヶ池』と『鏡池』の間のアカシヤの並木道をよく散歩したと書いている。大連市はその背後に標高数百メートルの南山があり、その北麓の東西に帯状に広がっているところが旧本人居住地なのだろう。清岡の父は旧満鉄の要人だったので、彼の家族はこの南山北麓の高級住宅街に住むことのできる豊かな階級に属していたのだろう。

 しかし、私がこの日訪れたアカシヤ通り『正仁街』は清岡が住んでいた高級住宅街からは離れている。ここは一般日本人が住んでいたのか? 旧日本統治時代にはアカシヤの樹が市内至る所に植えられていたようだが、現在は衰退してアカシヤの群生地は少なくなっているらしい。たまたまた正仁街のアカシヤの街路樹がよく保存されているのかもしれない。

 

第二次世界大戦末期には、ソ連の参戦により満蒙開拓民は追われるように逃避行をするなど、悲惨な目に遭ったことはよく知られている。大連居留の日本人たちも、土地家屋など全ての財産を捨てて、日本へ帰国した。しかし、例外的に終戦後も数年間大連に残った日本人もいた。それは、中国やソ連の要請によって留まった(留まらざるを得なかった?)人々で、理工系の技術者あるいは学者、医者、通訳、教員など、そしてその家族だった。

清岡の家族もそのような人々であったことが幸いして、他の日本人ほど悲惨な目に遭うことなく、小説『アカシヤの大連』で旧きよき大連の思い出を詩情豊かに綴ることができたのではないかと思われるのだ。

清岡卓行は終戦直後の混乱した日本へ帰るでもなく、さりとて寄る辺なき大連での生活の中で、思いがけもなく一人の大連育ちの女性と巡り合うことになる。彼はこう書いている。

 

彼(清岡)は、いつの間にか、彼女と結婚することを夢見るようになっていた。その夢は、なぜかふしぎに、今度いつやってくるかわからない引揚げ船による新婚旅行として、いつも頭の中に繰り拡げられるのであった。

引揚げ船による新婚旅行で、二人は無国籍の海を通過し、彼女のまだ知らない日本に行き着くはずであった。荒廃しているかもしれない戦後の日本で、どんな新しい生活が始まるか、彼はさまざまな夢を、彼女に喋ってみたかった。しかし、その勇気はなかなか出ないようであった。

 

清岡は彼女にプロポーズするときの台詞は準備できていたが、そのチャンスを探しあぐねていたのだろう。男が愛する女性にプロポーズする時と場所について、ある皮肉屋がこう言っている。

――千尋の谷に架かる一本の吊り橋の中ほどか、岸を遠く離れた深い湖に浮かぶボートの上に限る!

じつは、わたしは、将来の妻となる女性にプロポーズをしたのは、京都は嵯峨野の広沢の池でボートに乗っているときだった。広沢の池はせいぜい1メートル程度の水深にすぎないので、彼女が我がプロポーズを受け入れたのは、恐怖心によるものではないと確信しているのだが・・・・・・。

一方、戦後の日本の歌壇で一家をなした詩人清岡は、散文の第二作目にあたるこの小説『アカシヤの大連』の末尾をこう結んでいる。

 

アカシヤの花が散らないうちに、あの南山麓の山沿いの長い歩道で、遠くにかつての自由港がぼんやりと浮かぶ夕ぐれどきに、と彼は思った。

 

もし、わたしが、こう書いたなら「キザな奴!」とひんしゅくを買うだろうが、詩人の彼なら、ロマンチックな名文とほめ讃えられたうえに、芥川賞まで受賞することになる!

 

アカシヤ通りは、中山路からはじまり、やがて勝利路でおわる。道を引き返すことにした。この日、陽光が降り注ぎ汗ばむほどだったが、木陰に入るとひんやりとして心地よい! 意外と思えるほど道行く人が少なくて、ゆっくりと北国情緒を味わうことができた。           (了)

【追記】

 アカシヤ通りへ行った翌週に、「大連山の会」のハイキングに参加し、「西山水庫」という河を堰き止めた人造湖を望む嶺へ登山した。

 そこへ行く途中の森に『アカシヤ』が群生していた。アカシヤ通りへ行ってから、一週間しか経っていないのに、ほとんど花が散っていたものの、森の中には確かにアカシヤの香りが漂っている。そして、花の蜜に群がる蜂がいるようで、森の中には養蜂家がテントを張って蜂蜜を集めていた。アカシヤの蜂蜜は良質で大連の名物となっているそうだ。

 『アカシヤ』の花ビラには白と薄紫があるが、この森には薄紫の花が多いようで、地上に花弁が積もっていた。それを見ると、私は李白の『静夜思』を思い起こした。もし、月明かりの下なら、『地上の霜』に見えることだろう。

 

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