大学生活写真集

花に疎い私は大学前の桃の木を見て、「一本の桜の樹に紅白の花が咲いているなんて不思議だ!」と驚いた。が、これこそ桃の樹であることがわかった。桃の花もサクラに劣らず美しい。ところで、江戸末期に品種改良で生まれた「ソメイヨシノ」が美しいので、世界中でサクラは日本原産の植物だと誤解している人がいる。実は、桜はヒマラヤ原産で、永い年月をかけて中国の雲南省を経て、日本に伝わった植物なのだ。桜・梅・桃は類縁植物だ。中国各地に日本から贈られたソメイヨシノが美しい花を咲かせている。「青龍寺」には空海ゆかりの四国から多くの桜が寄贈されている。

 じつは、私は西安をはじめ中国各地で8年間生活している間に、ホームシックに罹ったことがほとんどない。唯一の例外は、桜の季節だった。このときばかりは、日本が気になってしかたがなかった。だから、西安では青龍寺に何度もいって桜を眺めながら日本を思ったものだ。そんな桜に対する思いをご紹介したいので、ご関心のあるかたはここをクリック。

 

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私は授業中にときどきこのような絵図を見せている。疲れたり退屈した頃を見計らって、写真やPhotoShopで作成した絵図を見せるととても効果的だ。しかし、こんなことができるのも一学年18人の学生だからだ。他の大学のように一学年50-60人になると、こんな丁寧なことはやっていられない。はじめての教え子18人にはできるだけのことをしてやりたいと、熱意に燃えていたあの頃が懐かしい。

 

 いずれがアヤメかカキツバタ

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十六人の女学生の皆さん、このダルマさんに感謝してね↑ 三人の「張」さんには、愛称をつけたね、「ケイ」「ハル」「アカツキ」と。

劉君と石君は団扇の中から浴衣美人を眺めていなさい。

クリスマスに学生に贈った画像。日本語科教師7名と学生18名、全員集合(絵をクリックすると拡大されます)
クリスマスに学生に贈った画像。日本語科教師7名と学生18名、全員集合(絵をクリックすると拡大されます)

各種淡水魚はスーパーに行けば水槽で生きたまま売っている。だが、魚を生のまま食べるのは危険だから、寿司ネタにはならない。唯一生で食べられるのは北の海から送られてきた鮭。これと、煮た貝も寿司ネタになる。

煎餅 水で溶いた小麦粉を丸く広げて焼き上げ、卵とネギを加える。小麦粉で固めた具を乗せて、周囲から折りたたんでできあがり。硬い日本の煎餅とちがって朝の学食で焼きたてのほかほかを食べられるので、私の大好物だ。

【食べ物のテリトリー論】

中国で一緒に食事したときによく経験することだが、日本のような「取り箸」の習慣がない。すると、共通の皿に盛られた料理を自分の箸で取って食べるか、自分の皿に置くのだ。日本人にはそんな習慣が無いし、非衛生で肝炎ウイルスの感染の危険性もあると心配する人がいるかもしれない(私は中国へ来るときには、定期的に血清肝炎の予防接種を受けている。また、肝炎ウイルスの経口感染は無いといわれている)。学生と食事をしているときに、女学生が自分の箸で料理を取って私の皿に入れてくれることがよくある。私はそんな優しい学生の好意を喜んで受け入れている。

後年、江西師範大の同僚教師である藤原先生とそのことを話したことがある。潔癖性で敬虔なクリスチャンである藤原先生は、「私は学生の箸で食べ物を取ってもらうことなど、イヤ!」と身震いするように嫌悪した。彼女にとって、衛生上の問題以前に、日本女性の感性に合わないからだろう。

 さて、劉トンさんと旅行し、あるレストランで食事したときのことである。わたしが何気なし、劉さん側の料理に箸をつけて取ったとき、「そんなことをしてはいけません!」と彼女が怒った。理由を訊くと、二人で食事するときには、「料理皿の中央に目に見えない境界線があって、お互いに相手側の料理に箸をつけてはいけない!」というのだ。旅行中、明るく天真爛漫に振る舞って、私を楽しませてくれる彼女なのに、こと料理のマナーに関わることになると、まるで朝鮮半島の38度線の越境者を咎めるように厳しかった。なるほど、保健衛生上からも合理的なマナーであると思った。だが、大食いの私は結局、38度線を越えて小食の劉さんの領土を侵略することになった。

彼女は、ソフトクリームを食べているときに、私が一口食べると、もう二度と口をつけようとせず、ゴミ箱に捨ててしまった。一方、後年無錫の夏さんや師範大の陳・黄さん(私の中国語の家庭教師)は、一本のジュース瓶を私と共用しても平気だった。彼女たちは皆、私を親族のように思ってくれている点では同じだが、やはり育った環境によるものだろうか、違うのだ。

絵をクリックすると各題されます
絵をクリックすると各題されます

 2年生が我が家に全員集合した図はもちろん仮定の話である。じつは、会話の授業で、学生に日本へ行って我が家を起点に観光旅行をする計画をたてさせた。あるグループの発表では、汽車の接続時間を間違えて、駅のベンチで一泊する羽目になった。そういえば、私が元いた会社に夜中まで働いて駅のベンチで寝て、翌朝そのまま出社した猛者がいた。日本は治安が好いとはいえ、中国の女学生が駅のベンチで寝ていたらどうなるか、ちょっと心配だ。

「日本語コーナー(日本語角)」は週一回夜集まって、自由会話の訓練をするためのモノである。長安大では陸上競技場の地面に座ってやった。冬を除いて満天の星空を眺めながらやるのは快いものだ。しかし、夜にやるので、教師の宿舎が学生と同じキャンパス内になければできにくい。中国で5大学計8年の経験から、日本語コーナーを開催している大学とそうでない大学とは、会話力に差があった。それは、会話授業を週に何回するかとも密接な関連がある。会話授業が週に一回で、日本語コーナーも開かないような日本語科には、進学しないように勧めたい。

女学生の中には、授業中蚊の鳴くような小さい声で話す人が必ずいるものだ。私は言った。

「君たちの中には、将来学校の教師になる人もいるだろう。その為にも、大きな声で話さなければなりませんよ」

 こういうと、ある学生が「私は、会社で働きますから・・・」と言った。

 私は猛然と反論した。

「とんでもない。会社で働こうと思う人は、教師になるよりもっと大きな声でハキハキと話さなければなりませんよ。会議などで、大きな声で自信満々話さなければ、聞いている人を説得することができません」

 あるとき、日本語コーナーでこんなことをやったことがある。学生を10m走らせて、そこで教科書の一節を朗読させたのだ。私が叫んだ。

「声がちいさくて聞こえない。もっと大きな声で読みなさい!」

二度、三度と繰り返しているうちに、聞こえるようになった。次に、更に10m走らせて、また繰り返した。そうしたら、最後にはどんなに声の小さい学生でも、かなり遠くからでも聞こえるようになったのだ。私は輝いている月を指差していった。

「ほらね、今の君なら、あの月にまで届く大声がだせるのだよ」

 だが、授業になると、やっぱり声が小さい(私は溜息をついた)。 

 人間は本来、大きな声で発声する能力を持っているのだ(特に女学生の声は甲高いのでよくとおる)。要は本人の自覚の問題である。

 ある大学に会話と作文共に、クラスで1,2位を争うほどの優秀な女学生がいた。私は次年度のスピーチコンテストに出場させてやりたいと思った。だが彼女は、はにかみ屋で話し中にそわそわしていて落ち着きがない。自嘲的な笑みまで浮かべて、まるで自信が無いような態度なのだ。

「もっと自信を持ちなさい。私も助言するけど、まず自分を変える意思を持たなければ」

 よく言われることだが、馬の持ち主が川辺まで馬を連れて行く、だが、水を飲むか飲まないかは馬次第。教師もこれと同じだと思う。

中秋節に月餅を食べながら観月。

黒竜江省出身の胡さんがしみじみといった。

「この月を故郷の母も見ているでしょう」

2004,5年ころ西安から黒竜江省には汽車で一日半もかかった。故郷へは夏休みと春節休暇にしか帰れないのだ。煌々と照る月を眺めている彼女は、望郷の思い、とりわけ父母への思慕の思いはひとしおだろう。わたしに、父母のかわりができようはずはないが、せめて祖父になって彼女に接してあげたいと思った。

(あれから、十四、五年後の2018年頃には、新幹線型高速度鉄道網が整備されており交通手段は格段に進歩している。また経済的に豊かになっている中国では、場合によっては航空機で帰ることもできるだろう。)

 

何処の大学でも、学生数の増大に伴い、(旧)キャンパスが手狭になったために、郊外に新キャンパスを建設することが常である。長安大学も西安市の北郊外の渭河(歴史的には渭水と呼ばれた)に新キャンパスを建設して、一年生が住んでいる(周りに店がほとんど無い農村地帯で、渭水の畔らしい楊の枝が風にゆらいでいる牧歌的なところだ)。中国の大学の新キャンバスは広大で、向こう側の外れが霞んで見えないほどだった。日本と違って全寮制のために多数の学生寮を建てなければならないことも一因であろう。それと、書の国を誇るように立派な図書館がある(もっとも、日本関連の図書は貧弱だが)。

わたしは、赴任2年目に前期だけ渭河の1年生に会話を教えた。後期から元高校教師の松浦先生が赴任してきて、1年生の会話を引き継いだ。元教師の松浦先生と元サラリーマン出身の私ではカラーの違いある。同じ日本人教師であっても、不干渉主義(?)で相互の授業を見ることはめったにない。たまたま松浦先生の授業に同席する機会が1,2度あったが、松浦先生は、授業の開始と終了時に、教師・学生が起立し、頭を下げながら挨拶を交わしているのが、新鮮に思えた。中・高校と京都の学校で学んだ私はそんなことをした経験がないのだ。私は、中国でも授業の始めと終わりに挨拶などしたことがない。入室するときに、「おはよう」と挨拶するだけだ。四国の保守的伝統が息づく土地で教師を永年していた彼がこれを知ったら、「森野はしまりの無い教師だ」と思うことだろう。後年、ある大学のある学年の学生が、授業終了時に「先生、ありがとうございました」と一斉に挨拶することがあった。中国人教師がそう躾けたのだろうが、私は照れながら、「そんなことしてくれなくてもいいよ!」という。そのかわり、私は学生に「朝来たとき、お早うございます。退室するとき、さようなら、を言ってね」ということにしている(この基本が最も大切だと信じている)。

江西師範大の藤原先生は、退室時に「先生、じゃーね」とか「バイバイ」と言った学生を叱ったそうだ。彼女が教師の権威を護るために叱ったとはとても思えない。学生の将来のために目上の人に対する礼儀作法を教えたかったからだろう(事実、藤原先生は「礼儀作法」の授業を担当していた)。一方、わたしはこの点でもいいかげんだ。「先生、バイバイ」でも、「ああ、また、あしたね」と返事して終わりだ。こんな老人の私なのに、若者とは友だち感覚でいたいし、心が通じていたらそれでいいと考えている。どちらが教師として正しいのか? 松浦先生や藤原先生の方が正統であることは疑う余地がない。

現場を想像して再現したもの
現場を想像して再現したもの

労働者の待遇改善デモ

 2006年1月11日に驚くべきことを西安の繁華街の路上で目撃した。京都でいえば四条河原町にあたるところが、西安では“鐘楼”のある交差点である。その鐘楼に通じる大通り“長安路”で、二、三十人の労働者が垂れ幕を持って車道の片側を塞いでいた。垂れ幕に、

「我要吃要活命西部科技公司。民生合法利益。」

(我々は、飯を食わねばならぬ。西部科技会社に生きる権利を要求する。正当な利益を与えよ!)

と書いてある。経済的待遇の改善を要求してデモのようだ。

私は航空券を手配する用事があって旅行社に行く途上でこのデモを目撃したが、旅行社からの帰りにもまだこのデモが続いていた。とても興味深かったので、野次馬根性も働いて、そのデモをしている労働者に英語で話しかけたが、英語を話せる人がいないために、深い事情を聞き出すことはできなかった。デジカメを持っていなかったので、記念写真を撮れなかったのが残念である。

私が帰るまで少なくとも1時間程度は、デモ隊が会社の前の車道の片側を塞いでいたので、バスや車は長蛇の列をつくってスットップしたままだった。バスの乗客は下りてその場を去ったが、デモ隊を囲んでいる野次馬たちが彼らを非難している雰囲気はない。一昔前の共産党政府のしめつけが厳しい時代なら、すぐ公安警察が駆けつけて、デモ隊に解散を命じたり、首謀者を逮捕したりするはずだが、公安らしき人はいたものの、遠くから眺めているだけのようだった。

 ここ数年、中国の各地で、地方政府の不正に抗議するデモ騒ぎが頻発している。最近でも、強制立ち退きを命ぜられた地元民が土建業者と結託した地方政府に抗議デモをして、治安警察と衝突した事件が起こっている。日本のメール友が送ってくれた新聞記事によれば死者も出たようだ。が、世界的な文化都市である西安で、私企業の経営者に対して労働者の生活改善を要求するデモが起こっていることは、私にとっては新鮮な驚きであった。これは、中国民衆の意志表明を共産党政権が抑えこむことができなくなっている一つの例なのだろうか? あるいは、政治的意図による反政府的行動ではないので、労働条件に関わる対会社交渉ていどのことは放置しておけ、ということなのだろうか? 中国人の友人に訊くと、

「西安でその種のデモを見たことはないが、人民には自由意志を表明する権利があるので、行政当局がそれを抑え込むことはできないはずだ」

と言っている。

中国の歴史に触れるだけでなく、このような現代中国の貌を垣間見ることができるのも、大きな喜びである。経済活動の自由化を推し進めて大躍進をしている中国で、自由主義国家への移行の萌芽を目の当たりにした思いがした。帰宅の途上で、乞食が金入れの容器を私の目の前に突き出した。これも現代中国の一現実である。

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