2 長安の都に赴任

    国内便に乗り換え、西の空にたれ込めている雲が紅色に染まる頃、西安咸陽空港に着いた。

空港には長安大学外事処の張科長(日本の課長)が大学所属の運転手を伴って迎えてくれた。四十代の女性である張さんは日本へ留学した経験があるそうで、日本語ができるので会話に不自由しなかった。私はこの大学をはじめとして8年間、中国の5つの大学に奉職することになるが、外人教師を統括する外事処の責任者は張さんを除いて全て英語しか話せなかった。中国でも外国語といえば英語が幅をきかせているようである。 

 

空港から荒野をつらぬく高速道路を車で一時間ほど進むと西安市にはいる。途中のレストランで夕食をご馳走になった。

食事をしながら張科長が長安大学の沿革を紹介してくださった。

4年前に三つの理科系単科大学が合併し、文化系の学部も新に加えて総合大学になった。国立大学で学生数は二万人を擁する。大学は繁華街に囲まれている。年々大学の規模が大きくなり学生数が増加してキャンパスが手狭になったので、現在西安市の北側の渭河(歴史的には渭水と呼ばれる)の畔に新キャンパスを建設中である。外国語学院(日本でいう学部)にはすでに英語科があるが、日本語科はこの新学期から新設されたばかりで、学生は9月に入学してきた18名の1年生だけである。教授陣は教務主任の楊助教授の他2名の中国人女性教師に私を加えて計4名だけであるが、来年には2名が加わる予定である。

私が訊いた。

「西安市といえば、長安城が有名ですね。長安大学は、長安城の城壁の中にあるのですか?」

「唐時代の長安城はかなり大きかったのですよ。今の長安城は明時代に再建されたもので、規模が縮小されています。だから、我が校は、唐時代なら長安城の中、でも今は外にあります」

「私たち日本人は、唐の都長安に憧れています。じつは、私が貴校の求人に応募したのは『長安大学』という名前に惹かれたからです」

「それは良かった」と張科長が相好を崩した。「じつは、大学名を『長安大学』とするかどうかについては、賛否両論がありましてね」

「ほう・・・・こんな魅力的な名前に反対する人がいたのですか」

「じつは、西安市の南の郊外に『長安県』という地名があります。だから、そんな田舎臭い地名を大学名にするなんてイメージが悪いので反対だ、という意見もあったわけです」

「そうですか、でも校名が長安大学に決まってよかったですよ。もし、他の名前だったら、私はこの大学に応募しなかったかもしれません」

 私はそういいながら、張科長、運転手と顔を見合わせて大笑いした。

中華料理は品数が多くてふんだんに盛られていた。私はこれが中国風歓待なのかと想像したが、旅の疲れと緊張のためか食欲がなく、残った食べ物の一部を朝食用にと、折り詰めにしてもらった。

 

レストランを出たところに物乞いがいた。共産主義国は平等で乞食をつくらないことを国是としていたはずだが、経済活動の自由化で貧富の差が激しくなっているからなのだろうか。この後、8年間中国各地で暮らすことになるが、どこの街へ行っても中国の経済的大発展の裏に潜む歪みを路上で見ることになる。

我が宿舎は専家楼の二階にあった
我が宿舎は専家楼の二階にあった

再び車に乗って大学に向かった。校門を入り構内を進むと車は三階建の建物の入り口で停まった。これが専家楼とよばれる教師用宿舎らしい。壁面いっぱいに枯れかけている蔦の葉が覆っていた。案内された2階の一室が私の宿舎だった。入り口左側にバス・ユニット(トイレ・洗面所付)、正面に十畳の居間(ソファ・テレビ・電子レンジ・冷蔵庫・空調付き)、その隣室にクローゼットとダブルベッドのある寝室があった。

嬉しいことに風呂はバスタブ式であった。このあとの4大学では風呂は全てシャワーであり、真冬の寒さの中でシャワーを浴びることは苦痛だった。早朝に日本を発った長旅のつかれのためか、湯舟に浸かることもなく、ダブルベッドに倒れ込むと間もなく熟眠して、中国の第一日目が終わった。

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