5 日本語教師への夢

   私は長安大学で1年目には会話、2年目には会話と作文を指導した。また、この後、江蘇省無錫市の大学で1年間、会話と作文、江西省の南昌市と上海市(重点都市のため市でありながら省扱いされている)と雲南省の昆明市の大学で会話と作文を毎年、その他(日本概況・ビジネス日本語・言語学・異文化コミュニケーション・日本文学史など)をときどき教えた。授業の他にも大学での生活や各地への旅行など中国在住8年間に多くの体験をした。

私が会社を定年退職してから第二の人生で『日本語教師』を目指したのは、外国人の日本語学習者に『作文』を指導したいと考えたからであった。外国で暮らしてみたいと思った理由については、既に記述したので、ここでは、外国人に日本語の作文を指導したいと思うに至った経緯を、会社時代を振り返りながら紹介しよう。 

 

40代半ば、私は20人の部下をもつ研究所の課長だった。部下を掌握して着実な業務管理によって上司の評価も良かったので、そろそろ部長になれる、と私は楽観していた。そんな頃、私は『新研究所建設のプロジェクト・リーダー』に推薦された。新研建設は会社の経営にとっても重要な案件なので、私はときどき社長室に出向いて、プロジェクトの進捗状況を報告した。

ところが、その席上で “社長の経営方針”を批判した。たかが課長風情の私が、あからさまに社長を批判できるはずがない。それは遠慮がちに言ったつもりであったが、社長は私を尊大なヤツだと感じたようだ。社長の言うことなど、「お説ごもっともです」とゴマを摺っていればよかったものを、愚かなことを言ってしまった、と後悔したがあとの祭であった。

悪いことは重なる。同じ頃、東京で自社開発中の新薬の研究会が開催された。医学・薬学の専門家が多数招かれ、社長も臨席していた。ある高名な医学部教授が新薬に疑問を呈する質問をした。それがたまたま私の専門に関わることだったので、私が答えることになった。それは教授の疑問を晴らすための必死の熱弁だったが、社長には、

――高名な教授に対して無礼な態度をとっている。

 と見えたのだろう。

 次の年の人事異動で、私の部長への昇格が見送られた。上司は、私の推薦状を研究所長へ提出したと言っていたのだが。その次の年にも、部長への昇格はなかった。こうして何年も過ぎている間に、気がつけば私は出世レースで後輩にも追い抜かれてしまっていた。

ある年の春には、研究所長に直接訊いてみたことがある。

「オレも、人事部に推薦をしている。だが、いろいろあるみたいでな。君は口のききかたには注意せなあかんで」

と、所長は、意味深長ないい方をした。

社内に数多ある末端の課長の昇進に社長が口を挟むなど、本来あり得ないはずなのだが、昇進見送りは社長の意思によるものであることを、私は確信した。こうして上司の抜擢で、プロジェクト・リーダーという活躍の場を与えられ、社長に認められるかもしれない絶好のチャンスを私は不用意な発言でみすみす失ってしまっただけでなく、昇進すら据え置かれる哀れな身の上になっていたのだ。大学の先輩である某重役は、この間の事情を知っているらしく、私を厳しく叱って言った。

「研究所のようなぬるま湯の中で永年ヌクヌクと暮らしているうちに、お前は世間の常識も、ものの言い方も知らないアホになってしまったのじゃ」

 私はまったく返す言葉がなかった。これからいくら頑張っても、あの社長の目が黒いうちは、日の目をみることはないだろう、と私は観念し、やる気を失った。 

私が入社した頃、先代の名物社長が言ったものだ。

「サラリーマンには御輿を担ぐ人と、ぶら下がる人とがいる。諸君は是非、御輿を担ぐ人になって欲しい」

私はこれまで、この社長の言葉どおりに努力してきたつもりである。しかし、もうよそうと思った。

――これからは御輿にぶら下がって、楽をして給料だけ受け取る人間になるのだ。

こうして、課員を叱咤激励して意欲満々だった私が、このときを境として無気力で怠惰な管理職になってしまった。だが、その影響がじわじわと部下に及んでいき、課内には沈滞ムードが漂うようになった。

ある日、有能な部下がひとり、私に辞表を提出した。思い止まるように必死に説得したが、彼は聞く耳を持たず、会社を辞めてしまった。明らかに私に失望し、見限ったのだ。

 己の舌禍が招いたことで、部下にまで迷惑をかけている自分が情けなかった。会社を辞めようとまで考えたが、妻子をかかえている身の上では、そんな決断をする勇気も結局なかった。

――我が人生とは何だったのか?

 と、悶々とする日々が続き、あるとき、ふと思いついて、カルチャー・センターの『小説を書く講座』を受講した。

 そこで書いた小説を講師の勧めで、ある全国雑誌の懸賞に応募したら、幸運にも受賞して本にもなった。しかし、その小説は会社で実際にあったことをフィクションにしてふくらませたもので、会社批判までした内容のために、人事部からも睨まれた。小説を書くような社員はヤクザ者と見られたのだろう。ますます出世が遅れ、課長のまま定年を迎えるか、さもなければそのうちにどこかに左遷されるだろうと覚悟しながら、私は惰性のままサラリーマン生活をつづけていた。唯一の慰めは、小説を書いたり読んだりする趣味に耽ることだけだった。

【書評】企業の研究所内での人間関係と理不尽な組織のなかで、はみ出してしまった男を、なんとか救済しようとする室長の苦悩と敗北。追いつめられていく企業戦士の孤独と心労を描いた作品(第13回潮賞受賞)。
【書評】企業の研究所内での人間関係と理不尽な組織のなかで、はみ出してしまった男を、なんとか救済しようとする室長の苦悩と敗北。追いつめられていく企業戦士の孤独と心労を描いた作品(第13回潮賞受賞)。

 ある年、もう葉桜の季節になって、社内の人事異動が終わった頃のことであった。この春にも、私の部長昇格は見送られたままである。

 私が所属しているテニスクラブの新人歓迎会が大阪の梅田であった。その帰り道で、開発部の青木部長とばったりと出くわした。大学の先輩である彼も梅田界隈で仲間と飲んでいたらしい。帰宅が私と同じ京都方面だったが、まだ時間があるから、ちょっと飲み直そう、ということになり、青木行きつけの小料理に入った。

 ビールを飲みながら社内のうわさ話をしている途中に、青木がいった。

「ところで森野、上司にも平気で噛みつく元気者のお前が、最近は冴えない面をしているな」

 と、青木が冷やかすようにいってから、アハハと笑って、ビールのジョッキーをあおった。

「お前、社長にへらず口をたたいたのが今でも祟っているのだろう」

「知っているんですか」と私。

「前から知ってるさ。人の不幸は蜜の味でな、酒のつまみになる恰好の話題だからな」

「そういう青木さんだって、上司との関係では、あまりいい噂は聞きませんよ」

「へっ、もうオレは慣れっこになっているから平気さ」

 冷や飯組同士の気安さからだろうか、私はちょっと我が悩みを青木に打ち明けた。

「ということはだ。社長がさ、部長昇格推薦リストから目聡くお前の名前を見つけて、赤ペンで抹殺したとでも思っているのか。毎年まいねん」

 青木はそういいながら、箸をカウンターの上で一線を引くようになぞった。

「そうとしか、思えません。上司は皆、私を推薦していると言ってるんですからね・・・・・・」

「オレもあの社長は大嫌いだ。だがな、社長ともあろう者が、お前のようなペイペイの課長の部長昇進に口出しすると思うか?」

「あの人は、筑豊の川筋気質の人だって聞きましたよ」

「ヤクザの親分みたいにか? 舎弟や子分にはとことん面倒を見る。だが、仁義に反する様なよそ者は赦さぬってわけだ」

 青木はそう言って、箸の先を私の胸元に突きつけた。青木のいうとおりだ。社長をはじめ、営業畑の連中で研究所に好意的な人間など一人もいない、と私は思っている。

「そうですよ。オレ様に小生意気なへらず口を叩くようなヤツは赦さぬと・・・・・・、私がそのイジメのターゲットに!」

 私はそういいながら、勢いよくタバコの煙を吹き出した。それが青木の顔にあたったので、彼は嫌な顔をして手で払った。

「お前な、人の心を読むのがチト浅すぎるのとちがうか?」

「ということは・・・・・・もしかしたら、私の部長昇格を推薦したと言っている上司の誰かが、嘘をついているとでも言うんですか!」

 

「いや、そうとはいわん。だがなあ、猫の首に鈴をつけるっていう童話を知ってるだろ」

「ええ、猫の首に鈴をつけるのは大賛成だけど、誰もそんな恐いことをするネズミはいないって話でしょう」

「そうそう、だからさ、お前を推薦してやりたいが、さて社長に持っていくとなると、馬鹿者って、一喝されるのが嫌で、研開の誰も、もちろん人事部の茶坊主共も、そんなことをやろうとはしないってことさ。それに」と、青木は一呼吸いれてから付け足した。「もう一つ忘れてならないのは『自分が大事と思っているほどには、他人は思わないものである』というのが人の世の常ってことさ。お前の上司だってそんなもんで、お前のことなんてそれほど大事に思っちゃいない」

 さすが、上司から冷や飯を食わされている青木部長らしい、説得力ある話に思えた。

 そう言われると、私の“社長憎し”の思いこみは見当違いということになるのだ。しかし、では私の怒りは誰に向けたらいいというのだ。それにしても、部下が当然すべきことまで、受け付けないような壁を自らつくっている社長の態度はやっぱり赦せない! こうして、私の怒りは依然社長に向けられたのだ。

 

 私が50歳を過ぎた頃、思いがけないことが起こった。社長が癌で倒れ、間もなく死亡したのだ。青天の霹靂とはこのことか!

社葬が大葬儀場でおごそかに執り行われた。

 この日、社員や弔問客など多数が詰めかけているこの大葬儀場の中で、只一人、社長の死を祝いたい気分の私がいた。参道を歩いていると、向こうから力なく歩いて来る人の姿が目にとまった。よく見ると、それは元開発部の尾本重役だった。もう何年も前に退職して、すっかり白髪の老人になっていた。

「ああ、森野君、久しぶりだね。お元気ですか」

 と、私のことを忘れずに、彼の方から声をかけてくれた。

「惜しい人を亡くしたものだよ。もっともっと、会社のために働いてもわらなければなかったのに・・・・・・・」

 そう言うなり、彼は大粒の涙を流した。

 ほどなく彼と別れて、焼香所に向かいながら、私には尾本元重役の印象が尾を曳いていた。

――多くの社員や会社OBの中には、あんな人もいるのだ!

焼香者の列に入り順番をまった。

 そして私は焼香し、亡き社長の大きな遺影を見上げた。あの強面の社長にしては、穏やかな表情をしている。これが私を苦しめた人の顔とはとても思えないほどである。

 私は心の中で社長に語りかけた。

「社長。さっき尾本さんに会ったよ。目に一杯涙を浮かべてアンタの死を悼んでいた。たぶん社内には同じ思いの人もいるのだろう。だが、オレはアンタが死んでよかったとすら思っている。結局、社員を生かすも殺すもアンタの掌(たなごころ) の中さ。そんなアンタがいなくなった後、オレはどうなるんだろう。研究開発本部や人事部の出方を見守るしかないよ。社長、サイナラ」

 翌年の人事異動で、私は部長に昇進した。部署名も『課』から『部』に昇格し、新にできた二つの課に私の後継者が課長に昇進した。部下たちが大喜びしている。私はしみじみと思った。

――やっぱりサラリーマンは出世しなければだめだ。出世は、自分の喜びであると同時に、部下の喜びでもあるのだ。もう一度ネジを巻き直して、頑張らねば。

 こうして、私はサラリーマン人生で、権力者に思いのままに翻弄される浮き草のような哀れな身の上を経験した。中国や北朝鮮の共産主義者が人民の思想・信条を弾圧しており、一方で我が国では、民主主義の名の下で、人々は自由に活きいきと生活していると思われているようだ。しかし、それは疑わしい。今でも日本の各地には江戸時代の藩のような会社が林立していて、そこの権力者が社員の運命に強大な影響力を及ぼしている。上杉鷹山のような名君社長がざらにいるものではないのだ。

その数年後、壮志的気風の、ある部長が副社長の横暴に怒って決然と退職した。角張った男は、日本の会社風土には合わないのかも知れない。一方は、颯爽と辞表を突きつけて会社を辞め、私はしこしこと会社にへばりついている違いはあるものの。

 

私は55歳のとき、第二研究所長に昇進した。研究所で研究員としてスタートした私は、一つの目標点に到達したといえるだろう。しかし、私には、苦労した末に部長に昇格したときのような昂揚感はなかった。それは、己の能力に余る地位に座らねばならない居心地の悪さであった。喜んだのは、自由に使える給料が少し増えた上に、研究所長夫人となれた妻だけかもしれない。

所長の配下には私の専門の生物系だけでなく、工学系の幾つかの部署があったし、はては一本のバイアル購入価格を1円値切るためのソロバン勘定をしている部署まであった。所長就任後の一年間は、部下の専門領域を理解するように努めていたが、2年、3年と経つと、もう部下に任せるしか仕様がなかった。そして、こんな仕事がオレの本当にやりたいことだったのか、と私は思うようになった。

課長時代には部長昇進を目指したが社長に阻まれるとそれを恨み、こんどは、研究所長に就任すると、またその業務に不満を抱く。人間とは身勝手なもので、何をやっても満足することのない存在なのだろうか。経営者的センスのない私は重役候補にはほど遠く、気がつけば60歳定年まであと2年を残すだけとなっていた。

――サラリーマン生活三十数年、遣り甲斐があったが、不満もあった。これで我が人生を十分に生ききったとはとても言えない。定年退職後の老後をどうやって生きようか?

と、私は思案するようになった。

はっきりと心に決めたことは唯一つ、もう二度とサラリーマンはやりたくないということだ。たとえ厚遇で迎えられようとも、会社には再就職したくない。老後の生き甲斐を求めて、別の道を歩んでみたいと思うようになった。

  私が所長になってから、いっそう会議が増えた。

そして、会議が終わって自室に戻るたびに、未決書類箱には、3部門十数課の部下から捺印を求める種々雑多な書類やリポートが山積みされている。たいていは斜め読みで捺印するだけであるが、ある日のこと、未決書類箱に『洋上研修報告書』とタイトルされた5、6枚の文書があった。先日、ある若手部下が経営者団体主催の船による研修旅行に参加した。日本の各企業から派遣された若手社員が船でともに生活しながら、東南アジアの主要港町を訪れて国際交流をする。リポートの表紙に貼ってあるポストイットにこうある。

――この報告書は人事部に提出後、社内報に掲載される予定です。ご一読くださり、認め印をお願いいたします。

洋上研修の様子が興味深く書かれており、なかなかよく書けているリポートである。それなら、社内報の読者にいっそう興味を持ってもらえるように、表現の工夫と日本語のバージョンアップをしようと、私はかなり丁寧な添削を加え、疑問点も指摘しておいた。添削作業とは時間のかかるものであるが、私は添削中疲れを感じることもなく没頭できた。忙しいだけで無味乾燥な会社生活の毎日より、よほど充実した時間を過ごせたように思われた。

――興味深い報告書です。指摘点を参考にして書き換えてください。

と、私は書き添えて部下に返送した。

 

数日後、部下が訂正した報告書を持参してこういった。

「大学院時代にも、会社に入ってからも、こんなに懇切丁寧な添削をしていただいたことはありません。私の文章はまだまだ未熟であることがわかり、とてもいい勉強になりました。ありがとうございました」

部下の笑顔に接すると、私まで嬉しくなった。

――そうだ、外国の大学か語学学校へ行って、学生に日本語の作文を教えるのはどうだろうか?

これは、魅力のある仕事のように思われた。

私は日本語や英語の論文を読んだり書いたりする仕事を30年以上もやってきた。そしてカルチャー・センターに3、4年通っている間に小説やエッセイを読んだり書いたりもしてきた。科学技術論文に加えて散文の書き方まで知っているとは、“鬼に金棒”ではないか? してみると、さんざん苦しめて、カルチャー・センターにまで行くきっかけをつくった、あの社長は、私に明るい将来を展望してくれた恩人でもあったのだ。『人間万事塞翁が馬』という故事がある。人生とは面白いものだ。外国人に日本語を指導する仕事なら、給料をもらうことができるではないか! 私はそう考えるようになった。

 たまたま、その頃に、ある雑誌社から機関誌のコラムに『日本語の科学技術論文の書き方』をシリーズで執筆するように依頼された。こうして私は、日本語作文指導から『日本語教師』への道が見えてきた。そして、その第一歩として、私は図書館でみつけた情報から、『日本語教師養成通信講座』に申し込むことにした。こうして、会社定年2年前にして、老後のための助走が開始されたのだった。

 以上、私の五十代を紹介した。ちょっとここをクリックして、私と一緒に横道にそれてくださいませんか?

 

 

<定年退職後の夢――外国で日本語教師>

まもなく会社のしがらみから解放され、家庭では子供を育て上げて結婚させ、私はもう総ての責任を果たした。定年退職後には、十歳の子供のように自分のことだけを考えて自由に老後を生きてみたい。

 

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