1 上海の孤独

中国で初の孤独

A 上海で職を得て

江西師範大の日本語教師を3年で解雇された私は、68月の3ヵ月間、インターネットの求人広告を頼りに、中国各地の大学に次々と応募したが、一つとして私を採用する所は無かった。

中国では9月から新学期が始まる。それを目前にした8月末、上海の日本語教師会の案内に、

――上海理工大学で日本人教師を募集。急募につき70歳まで応募を受け付けます。応募希望者は担当の中島までご連絡ください。

という広告があった。同大学で日本語を担当予定の中島教師が家庭の事情で急きょ帰国しなければならないための補欠の求人だった。67歳の私には願ってもないことなので、早速応募した。中島先生と蘇州大学で同僚だったことのある大川先生(蘭州大学)が、私を強く推薦してくださったことも幸いして、私は上海理工大学に採用された。

これまで、中国の地方大学ばかりを渡り歩いてきた田舎教師の私にとって、大都会上海に住むことができるし、北京に次いで教育レベルの高い上海の大学で教鞭を執ることは大変な幸運であった。

――残り物に福がある。

というではないか! 何処の大学に求職を申し込んでも採用されなかった私が、最後のさいごに大福をつかんだのだ。

しかも、給料は9,000元、これに住宅補助費を加えると、11,000元(約15万円)と、初めて一万元の大台を超えた。この額は、長安大の約三倍、前任の師範大の約二倍であった。まるでドサ回りの三流歌手が苦節ウン十年の後、ようやく世に認められて東京の大ステージでトリを務めるまでに出世したような気分である。これほどまでの大学の厚遇に応えるためにも、優れた学生に相応しい最高の教育をしよう。中国へ来て7年目にして掴んだ最高の舞台で、日本語教師としてベストを尽くそう、と私は決意した。

そのうえ、私が住むアパートは上海でも最も美しいと言われた旧フランス租界地にあり、上海市内の一等地であった。そこは中島先生がご夫婦で住んでいたので、生活用品が全て揃っており快適な新生活を始めることができた。しかし、これまでの大学ではいずれも学内に教師用宿舎があったので、キャンパスから離れたアパート暮しは私にとっては初めての経験だった。

それも、このアパートから上海理工大学までは、地下鉄とバスを乗り継いで1時間半もかかるのだ。ただし、このアパートの近くに大学の分校があり、そこから朝と夕方スクールバスが往復しているので、それを利用することができた。

私が担当する授業は、3年生の言語学入門と4年生の作文で、中島先生が準備していたテキストを使えばいいし、各学年二クラスで週に計8コマ(45分X8)と負担も少なく全て順調に思われた。

 

B 不良外人となる

ところが、就任早々に、朝一番の授業となる言語学入門1組の授業を三度も欠勤するという大失敗をやってしまった。

最初は、指定された場所にスクールバスが停まっていないのでウロウロ探しているうちに乗り遅れてしまい、二回目は目覚まし時計が鳴らず、三回目には鳴った目覚まし時計を止めて寝過ごしてしまったのだ。しかも、直ちに大学に連絡しようと思ったのだが、携帯電話が見つからない、連絡先の電話番号が分からない、部屋の固定電話器が片側しか通じないなど初歩的ミスが重なった。これらは、私の不注意がもとだった。これまでの大学なら少々寝過ごしても、走れば78分で教室に行けたのだが、ここではそれができない。環境の激変にテキパキと対応できなかったとは、私が耄碌したということだろうか。

大切な授業を三回もすっぽかしたとなると、学生が騒ぐし、教務主任も黙っていられない。これまでの大学では、私は真面目で教育熱心な日本人教師と評価されていたのに、ここでは不良外人になってしまったのだ。

たまりかねた教務主任が日本に帰っている中島先生に苦情をいった。そして、玉突きのように中島先生から私へと、きつい叱責の連絡がきた。

「バスに乗り遅れたらタクシーをとばして駆けつけたらいいではないですか。とにかく度重なる不祥事を起こしては、せっかくあなたを見込んで推薦した私の立場がなくなります。これ以上無断欠勤が続いたら、私はあなたを庇うことができなくなります。そのことを良くよく猛省してください!」

 全く返す言葉もないまま、ひたすらお詫びをするしかなかった。

 その後、新しい環境にも慣れて、不祥事はおこさなかったものの、出だしでつまずいた私には、その余震がなおも続いた。

前任の江西師範大学は内陸部にある地方大学にもかかわらず、学生は学習意欲が旺盛で優秀であった。だから、教育レベルの高い上海にあるこの大学にはさぞかし優秀な学生がたくさんいるに相違ないと期待していた。

ところが、3年生の言語学入門の授業をはじめて一ヵ月も経たないうちに、その期待は失望に変わった。テキスト200頁を10グループに分担させ、順番に発表させる授業形式をとったのだが、学生の発表を聞いていると発音が悪く、漢字の読み違いが頻発するなど、これでも3年生だろうかと疑いたくなるほどのひどさだった。明らかに江西師範大の学生より劣っていた。

こんなことは、予想だにしなかったので、なぜだろうか、と私は考えた。

江西師範大に学ぶ学生の殆どは、経済的発展の遅れている内陸部江西省の出身である。子供の両親の多くは上海や広州、深圳、など大都会に出稼ぎに出て、1年に一回、旧正月に故郷に帰って子供と会うことができるだけだ。両親はおそらく大都会を支える底辺の貧しい毎日の生活の中から学費を稼ぎ、子供だけには十分な教育をつけさせ、将来、大都会で豊かな生活をさせてやりたいと願っているのだろう。師範大の学生たちはそんな親の願いを肌で感じながら、勉学に励んでいる。彼らをハングリー精神が支えているのではないかと思われるのだ。

一方、中国一、二の大都会上海では、優秀であれば恵まれた環境の中でますますその学力を伸ばして成長する子供がいる一方で、豊かできらびやかな都会の雰囲気にスポイルされて、甘やかされて育ち、厳しさに欠ける子供も少なからずいるのではないか? 私が勤務し始めたこの大学には、後者のタイプの学生が多く通っているのではないか? 私はそう疑いたくなった。

だとすれば、不甲斐ない彼らを今の中に徹底的に鍛え直さなければならない、と私は決意した。

授業でキレル学生

C 厳しい授業でキレル学生

 ある授業でのことである。発表した女学生の発音を指摘して三度目の言い直しを命じた瞬間、彼女は教室を飛び出していった。心配になった私は班長に探しに行かせた。戻ってきた班長は「寮に帰りました」と報告した。こんな程度のことで学生がキレルなんて初めての経験であったが、教室には白けた雰囲気が漂っている。

翌日、教務主任から「あまり厳しく指導しないでください」とたしなめられた。その頃から、

――森野先生はコワ~イ教師だ。

との噂が女学生の間に広がったようである。男子学生なら、口には出さないものの、

――何回も授業をすっぽかす不良外人教師のくせに、偉そうにしやがって、クソー。

くらいのことは思っているかもしれない。

新学期が始まった9月以来、学生は始業時も終業後に退室するときにも、私に挨拶を殆どしなかった。始業時には、私の方から挨拶するように心懸けてはいたが、それに応える学生は少なかった。だが、私は学生をとがめたりはしなかった。これまでの大学での経験から、挨拶などの礼儀作法は12年生の間に躾けておかなければ、身につかないものであることを知っていたからである。それに、無断欠勤した私の弱みも多少はあった。

しかし、私に対して、どこかよそよそしい態度の3年生を見ていると、これまでの大学にはあった教師と学生とを結びつける心の接点が、この学校では途切れているようなもどかしさを感じるのだ。これが授業を低調にしている一因ではないのか? そんなことを考えながら、ふと思った。

――オレは、この学校では、前任者が帰国したために臨時に雇われた日本人教師程度に思われているのだろうか? 学生からも疎んじられて、吹けば飛ぶような存在にすぎないようだ。

いや、そうではないだろう。そうだ、こんな時の打開策は、やはり前の大学でやっていたことをやってみることだ。学生を小グループに分けて我がアパートに招待し、寿司やお好み焼きを振る舞いながら学生と交流することから始めよう。しかし、実際に始めてみると、学生の多くが上海市内出身なので、金曜日午後から親元に帰ってしまう。結局遠路はるばる1時間半かけて我がアパートにやってくる学生は2グループだけで途絶えてしまった。江西師範大学でやった週一回夜に集まって自由会話をしながら学生と交流する『日本語コーナー』も持てず、午後5時台の帰りのスクールバスの時間を気にしなければならないようでは、とても学生との時間外交流もできない。こうして、私はこれまでの大学とは全くことなる環境の中で、無力感を抱えながら時間ばかりが過ぎていった。

学校で一つの救いは4年生の作文指導であった。彼らは最高学年らしく大人の雰囲気があって、作文の内容を巡って私と楽しい会話ができた。だが、11月末から就職活動がはじまり、仮採用が決まれば実習といって会社で働き始めるのだ。僅かに34ヵ月で別れてしまう4年生と比べると、やはり一年間の付き合いとなる3年生のことが気になる。

上海の街並み
東洋一を誇るショッピングセンターの正大広場

そんな悩みをもちながらも、学校を離れると、上海の街は魅力あふれる所がいくらでもあった。週末には地下鉄に乗れば、近くの豫園・外灘など簡単に行けるし、アンティク調の町並みを楽しめるところも多い。食べ物では西安以来、私の好物になった小籠包の美味しい店が街の至る所にあった。iPodが故障して、アップルセンターへ行けば英語を話す技術員が丁寧なケアをしてくれるし、さすがに上海は他の都市とは比べものにならないほど行き届いたシティーライフが享受できた。

喜んだのは家内であった。過去6年間の中国生活の間、家内が中国に来たのは唯の三回限りだったのに、一年間に四回も上海に来た。かつての教え子も何度か私を訪問してくれて、旧交を温めることができた。

だが、有意義な個人の生活だけでは、不完全燃焼している仕事上の不満を癒すことにはならない。私は中国一の大都会のなかで、今ほど無力な自分を感じたことはなかった。

私は春節休暇明けの後期授業で、12年生の会話授業を担当させて欲しいと教務主任に願い出た。鉄は熱いうちに打て、低学年のうちに徹底的に会話を教え込むことから始めたい。それとこの大学の会話授業が週に一回しかないことも、制度的な欠陥であると感じていた。この大学を含めて、4大学の会話教育で私は確信めいた結論を持っている。12年生に週に二回の会話授業をしなければ、優れた会話能力を持つ学生に育てあげることは無理である。それが出来てこそ、34年生の授業で日本人教師が担当しても充実した教育ができるのだ。

私は教務主任にこれらのことを伝えたところ、2年生の会話授業を担当させてもらうことができた。そこで、週一回の正規の授業に、学生との合意のもとで、もう一回自主授業を追加して、週二回の会話授業をすることにした。この他に、3年生を引き続き受け持ち、『異文化コミュニケーション』の授業を担当した。

桜が咲き始めたころ、中島先生が上海にやってきた。キャンパスの一隅に中島先生を取り囲んでいる3年生たちの姿があった。学生たちが皆、私にはついぞ見せたことのない笑顔を中島先生に向けているのを知った瞬間、私は年がいもなく中島先生を嫉妬した。私より二、三歳年上の彼は、ロマンスグレーの頭髪、穏和な表情に笑顔を絶やさず、チェックのチョッキにグレーのズボン姿で、しゃれた上海の街角に自然に融け込むことのできるジェントルマンであった。「あなた、もう少し身なりに気をつけなさい」と家内に叱られている私とはずいぶんと違っていた。学生たちは彼が大好きで、今でも私ではなく彼に教えてもらいたいと思っているに違いない、と私は思った。 

 

D ボタンの掛け違い

二日後に、中島先生が我がアパートを訪れた。ここに前年の8月まで彼が住んでいたのだ。彼に乱雑なアパートを見せまいと、私は前日に念をいれて掃除しておいた。

各部屋を一巡してから、居間に腰掛けてしばらく話をした。私は授業の様子をかいつまんで紹介した。

「4年生の作文は、先生が選んだテキストを使いながら予定どおり終わりました。卒論ははじめ私が担当する予定ではなかったのですが、ある学生が私の指導を受けたいと希望したので、お世話しました」

「それは良かった」

「ただ、3年生の言語学入門の方は、いろいろ問題がありました」と私。

「ええ、先生のメールでだいたい分かっています。私、思うんですが、最初のところでボタンの掛け違いがあったような気がします」

「と、いいますと?」

「森野さんは、この大学に期待が大きすぎました」

「はあ、たしかに、前の大学と比べたら、上海の大学にはスゴイ学生がいっぱいいると」

「ところが、期待したほどではなかったから、がっかりした。そこで、これではいかんと、張り切った。そして厳しく指導し過ぎたのです」

「厳しくしたつもりはないんですが・・・・」

 と、私はいって腕を組んだ。

「そこですよ。ボタンの掛け違いがおこったのは! じつは、きのうの夜に3年生を誘って食事したのですが、女学生がね、森野先生はコワイ先生だって言っていましたよ。恐がると萎縮するし、逆に森野さんに反発する学生がいても良くない。どちらにしても、上海の学生には厳しすぎる教え方は逆効果にしかなりませんからね」

「おっしゃるとおりかもしれません。もっと早くそのことに気付くべきでした」

 私はそう言いながら、中島先生の温厚な顔を眺めていた。彼はその人柄どおりに、円やかな心で学生を優しく包み込むようにして指導していくやり方なのだろう。一方、私は鋭角的に学生の心にズカズカと踏み込んでいく。一言に日本人教師といっても学生への接し方は様々なのだが、上海では中島先生のようなタイプが学生に好まれるのだろう。

 ここで私は話題を換えてみた。

「じつは、3年生の発音や会話能力の低さは、12年生の時の会話授業が週に一回しかなかったこともあると思うのです。だからこの問題は、学生の学習意欲の低さのせいだけではなく、この大学の教育体制の不備も一因だと思うのです。私は教務主任にお願いして、後期の授業で2年生の会話授業を担当させてもらいました。そして、正規の授業の他にもう一回自主授業をして週二回にしています」

「と、いうことは、ゆくゆくは、2人の日本人教師体制にもっていく」

「ぜひ、早急に実現して欲しいですね。前任の大学でも日本人教師二人が、12年生に週二回の会話授業をやっていました。会話授業に力をいれている上海の名門校だってそうでしょう。だから、スピーチコンテストだって、そんな名門校を相手にしては、週一回の会話授業しかやっていない、しかも、中国人教師が教えているようなこの学校は、とても太刀打ちできません」

「しかし、制度を変えることはとても難しいですよ。特に、金に関わることには。それに、大学には独自のポリシーがあるのですから、日本人教師の思うようにはならない。私は、大学から与えられた範囲の中で、授業で精一杯努力するしかないと考えています」

そんな会話をしているうちにやがて、食事どきになったので、近くのレストランへ行って昼食を共にした。

 

 5月末、私は大学から、次年度の継続採用をしないことを通告されて、日本に帰国することになった。私はあくまでも中島先生のピンチヒッターとして一年限りの採用だったのに過ぎないのだが、継続採用されなかったのは、年齢の問題だけではなく、私がこの大学が求める教師としては不適格者だと判断されたのかもしれない。

 私がこの大学で少々心残りだったのは、2年生で試みた、週に二回の会話授業の成果を見届けることができなかったことである。半年だけでは判断が難しいのだ。

それでも私が上海を去るとき、会話授業で親しく交流した2年生の有志は、市内のレストランで私の送別会をしてくれた。だが、3年生は、学年末の最終授業の後、いつもどおりに一言の挨拶も無しに去っていった。これらは、いずれも私が招いた当然の結果だともいえるだろう。

 

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