7 教務課の変身 と 解雇通告

 私は9月からの前期授業では、2―4年の授業を担当したが、3、4年生の学習意欲の低さにはいささか失望した。そして、それは学生の問題だけでなく、この学校の教育体制の不備も関連があると思えてならないのだ。このことは上海理工大学の事情と酷似している。会話授業が週一回しかないため、会話力と聴き取り能力の不十分な学生が少なからずいるのだ。それが、3、4年生になって日本人教師の授業を低調にし、教育の効果が挙がらないことになっているのではないか? 勿論、我が教授法の未熟なところも一因かもしれないが。

このようなジレンマを根本から解決するためには、1、2年生の中に、聴き取り能力を含めた会話能力がつくようにしっかりと指導をすることが是非とも必要だ。それは、日本人教師だけでなく会話以外の科目を担当する中国人の教師の役割も大事である。そして、学生の学ぶ姿勢を身につけさせることも不可欠だ。このような初期教育を疎かにしていると、どうしようもない3、4年生が多数出来てしまう。

私は教務主任に、後期授業では、1年生の会話も担当させてほしいと願い出て、認められた。

1年生は本校とはスクールバスで一時間以上離れている新キャンパスで学んでいる。1年生でも2年生と同じやり方をしながら、1、2年生の会話を全て私が担当することになり、新たなチャレンジが始まると意気込んでいた。

 1年生への前期の授業の詳細を聞いている中に、私はひとつ異常に気付いた。一学年42人の学生が1クラスで授業を受けていることが分かったのだ。

 こんな多人数の学生を相手に、しかも週に1回の会話授業では、行き届いた教育をする自信がとても持てない。会話授業では、1クラスあたり、できれば20人程度、多くても30人までのクラス編成が常識だろう。この異常な事態だけはなんとか避けなければならない。

そこで、教務主任にメールで改善を訴えることにした。

過去私が勤務した4大学での会話授業は、20人から30人までのクラス編成であり、42人は異常です。現に、この大学でも2-3年生では、一学年50-60人を2クラスに分けております。なぜ、1年生だけが42人の一クラス編成になっているのでしょうか? 私はかつて就活をしていたときに、インターネットである私立大学の求人広告を見つけて、求職の申し込みをしようと考えました。しかし、採用条件のひとつに、不可解なことが書かれているので、それを問い合わせました。

――貴校の採用条件に、<声の大きい>方を希望、とありますが、それはどのような意図によるものでしょうか?

求人窓口の担当者から次のような返事がきました。

――我が校の会話授業では、一クラス50人の学生を担当していただくので、声の大きい先生を希望しております。

なるほど50人もの学生を収容する教室で授業をするとなれば、教室の隅々にまで届くように大声で話す必要があるでしょう。先生もご存知のとおり、私は声の大きいのが地声なので、この要求にぴったりの教師かもしれません。しかし、私がいくら就職難で困っていようとも、このような学校には絶対に行きたくないと思いました。おそらくこの私立大学は、学生をまるで工業製品のように扱って、金儲け主義のマスプロ教育をしている学校なのでしょう。

ところで、この昆明彩雲大学も1年生で同じ事をやっているのではありませんか? これでは、せっかく日本語科をめざしてこの大学に入学してきた1年生が可哀想でなりません。

先生は、二言目には「我が校は私立大学だから仕方がない」と仰っています。しかし、私立大学であろうと国立大学であろうと、有為な人材に育て上げて社会に送り出すという社会的使命には変わりがないはずです。私は先生のお許しを得て、1年生の会話授業も担当することになりました。彼らにも2年生と同様に、自主授業も加えて週に二回の行き届いた会話授業をしたいと念願しております。私の負担が少々増えますが、そんなことはかまいません。やる以上、彼らを徹底的に鍛えたいのです。どうか私の思いをご理解いただき、2クラス編成にするよう、学院長への説得を切にお願いいたします」

このメールを出した翌日、教務主任から返事がきた。

「先生の熱意に感動いたしました。さっそく学院長にお会いしてお願いした結果、教務課の同意も得て、来学期から1年生は2クラス編成にすることになりました。この方針に従って、来学期の一週間の授業スケジュール表を再提出してくださいませ」

 私の提案がこのような形で実を結んだことは、これまでには一度もなかった。外人教師でもこれだけは是非拘りたいと思ったことがあれば、上に訴えることは必要であり、下の熱意が上に届くこともあるのだ、と私は喜んだ。

 新キャンパスには各種スポーツ施設が完備しており、テニスコートもあるそうだ。私はテニスの愛好家だ。1年生担当の教師に連絡をとり、テニスを趣味とする学生がいるかどうかを問い合わることにした。学生とできるだけ交流を深めたい。遊びをつうじての交流ができればベストだろう。こうして、私は後期授業での望みを膨らませていた。

 

 だが、それ以来一、二週間ほど教務主任が私を避けるような態度があって、ちょっと気になった。

 そして分かったことは、私を困惑させた。

クラスの人数

「後期から1年生の中の3名が、法学部へ転部することになり、学生数が39人に減りました。そこで、教務課は、2クラス制を元にもどして、1クラスにすると言いました。残念ですが・・・・・・・」

 私は教務主任の説明を、自分でも意外なほど冷静に聞いていた。目の前の無力な人は、上からの命令なら、素直に受け入れるしかないのだろう。この人を相手に怒っても仕方がないのだ。

「そうですか」と、私はいった。「正式には1クラスでも自主授業の形を取れば、事実上2クラスにすることができます。いろいろ工夫してみましょう」

 新たな状況を受け入れたものの、夜アパートに帰ってから思い返すと、だんだん怒りが込み上げてきた。

42人なら2クラスにするが、39人なったら元に戻すような無体な論理がどこからでてくるのだろう。大学の経営陣は、経費節減のためならあらゆる口実をみつけては、朝令暮改を平気でやる輩に違いない。そこには、望ましい教育とは如何にあるべきかという教育関係者の倫理感が全くといっていいほど欠落している。彼らが銭金の計算だけに血眼になって、ソロバンをパチパチとはじく音が聞こえてくるようであった。

 夜、ベッドの中にいても私は寝付けなかった。思いは堂々巡りをしている。結局、私の思いは上に通じていなかったのだ。だとすれば、私の奉仕活動をすべて止めてしまおう。学生の自由会話の場である『日本語コーナー』は、契約書の中にはない。もちろん会話の自主授業など私が勝手にやっていることだから、直ちに止めることができるのだ。上層部への怒りの抗議として、それぐらいの報復行動はすべきだ。

しかし、私の思いが教務主任を通じて届くのは、せいぜい外国語学院長までだろう。意思決定をしているのは、それより上なのだろうから、私の抗議など事態の改善には何の役にも立ちそうにもない。

 上海の大学で、前任教師の中島さんと話したときのことを思い出した。彼はいった。

――制度を変えることはとても難しいですよ。特に、金に関わることには。それに、大学には独自のポリシーがあるのですから、日本人教師の思うようにはならない。私は、大学から与えられた範囲の中で、授業で精一杯努力するしかないと考えています。

 

●  私は誰のための教師か?

大学当局に対しては『見ざる、聞かざる、言わざる』の三無主義に徹することが外人教師のベストポリシーであるべきなのだろう。

ここ昆明で中国での教師生活も8年になる。

会社時代とは違う中国での教師生活――それはあらゆるしがらみから解放されて、自由で自分のやりたいことだけをやるーーそれを老後の生き甲斐にしたいと望んでいたが、実現できているのだろうか?

 中国の教育界はユートピアとはかけ離れていた。私に対する教務主任の冷淡な態度。一人の落ちこぼれ児を出すまいとの決意はすぐ崩れ去った。学生の裏切りと冷淡な態度。数え上げればきりがない。それは他者だけでなく己への不満でもあった。

 組織の中で生きて行く以上、そして組織が人間によって運営されている以上、自由気ままに生きていくことは難しい。それを心底望むのなら、人里離れた山野で孤独な生活をするしかないのだ。

私の友人にそんな男が一人いた。会社退職後、山陰の寒村に引き籠もり、太陽と共に起きて畑を耕し、夕餉時に帰宅する。雨が降れば、読書三昧に漢詩の創作までしている。それは、孤独を友として、清貧に甘んじてこそ成就できる生き方なのだろう。

羨ましい限りである。しかし、娑婆っ気があり、人恋しい私には、そのような生き方は出来そうにない。私は人と人が触れ合い、互いの心に寄り添うような人間関係を望んでいる。とすれば、組織の中で我慢しながら、そんな喜びを少しだけ若者と共有していくだけで満足しなければならないのだろう。

ふと、2年生の莫班長と劉学習委員の顔が浮かんできた。二人が学友と一緒に我がアパートに遊びに来たときに、春節休暇のことを話した。

「劉さん、きみは紅河の出身だね。私はシーサンパンナに旅行しようと思っているんだ。紅河は隣町だから、熱帯の観光地に会いにこない?」

「でも、先生、私の故郷とシーサンパンナとはバスで6時間も離れています。先生と旅行したいけど、ちょっと無理みたい・・・・・・」

「そうなの、雲南省って広いんだね。じゃ、莫君、きみは昆明に住んでいるから、休暇中においしい郷土料理の食べ歩きでもしようか」

「いいですね。昆明のことなら任せてください」

「莫くん、ズルイわよ」と、劉が割り込む。「先生、私も食べ歩きしたい」

「いいよ。じゃあ、紅河から昆明にきなさい」

と、私は悔しそうな劉の顔を見て笑う。

 人と人との巡り合わせとは不思議なものである。上海では1年間も授業をしていながら、3年生とは冷たい関係のまま別れてしまった。が、ここでは、まだ3ヵ月少々でこんなに学生とうち解けた関係ができているのだ。そして、この二人以外の学生も全てとは言えないまでも、日本語コーナーや自主授業に喜んで参加している。

 彼らは、私を頼りにして会話が上手になりたいと思っているに違いないのだ、後期授業でも。

 私が大学との関係で、自主的な奉仕活動を止めたら、彼らは、どれだけ失望するだろうか。結局行きつく先は学生のところに落ち着いた。他の全ては微々たることに過ぎないと割り切って、学生の期待に応えてやろう。

 

●解雇通告 

上の一件に心の整理がついた2週間後に、私は意外な事実を知った。

12月のある日、日本の友人からメールが入った。

――215教師会の案内に、昆明の雲南大学滇池学院から日本語教師の求人広告が出ているが知っている? ここは森野さんが勤めている大学ですよね。あなたの他にもう一人日本人教師を雇うつもりですか。

私は日本語科の教務主任に、週一回の会話授業ではダメだから、日本人教師を二人雇って週二回の会話授業を早期に制度化するように訴えていた。それに対して教務主任は、

「我が校は私立大学ですから、財政上大学当局が中々認めてくれなくて難しい」

といっていた。

 だから、求人広告が出ているということは、私の解雇が99%確実ということになる。

私はちょっと時間をおいて、心の準備をしながら教務主任に確かめた。

教務主任は、私が既に求人広告を知っていることが意外だったようだが、

「先生は次年度70歳になるので、継続採用はできないことになりました」

 と、いった。それ以上訊くべきことは何もなかった。

 私は、70歳が有力な解雇理由になることは理解しながらも、いずれ分かることを、私に伝えないまま、こっそり求人広告をだすような姑息なやり方に、心穏やかではなかった。いきなり背後から斬りつけられたような思いである。しかし、これも中国的やり方なのかもしれない。

日本の家内に伝えたところ、

「それでも、あなたのような老人を1年でも雇ってくれたことに感謝しなければ」

 と、たしなめられた。

 確かにそのとおりだった。

 私はこの教務主任との関係が悪くなかったし、私の教育上の熱意も理解してくれていると思う。だから、彼女が現場の責任者として、私を意図的に1年で解雇しようと考えてはいないだろう。

 してみると、前に教務課が1年生のクラス編成を2クラスから1クラスに戻したのと同じように、今度の私への解雇決定も学院長よりもっと上――恐らく外事処あたり――の意向によると思われる。

日本語科教務主任は今度もまた、上の司令を私に伝えるだけなのだろう。

こうして、私はまた路頭に迷うことになる。

思えば、2003年6月26日、60歳の誕生日に会社を定年退職した。まだ元気でやる気満々だった私は、 

――これから10年間、もう一仕事やってみたい。できたら未知の世界に飛び込んで、人生を二倍楽しもう。

そう考えた。

間もなく2012年が終わろうとしており、あと半年で退職後10年の節目を70歳で迎えることなった。

――光陰矢の如し。

作文授業でこの言葉を書いた学生を何度叱ったことだろうか。「月並みで手垢にまみれた言葉を安易に使ってはいけない」と。しかし、この言葉は今の私の感慨にぴったりなのだ。充実して楽しく暮らしている時間は、すぐに過ぎ去ってしまうのだから。この大学を馘になれば、70歳の私はもう二度と日本語教師の職が得られないだろう。帰国して静かに老後を送らなければならないのだ。そう思うと、少々感傷的な気分になって我が半生を顧みたくなった。

 

私はオホーツク海の港町、北海道の網走に生まれ育ち、13歳から40年間京都の織物地帯西陣で過ごした。父が亡くなってからは、琵琶湖を望む大津市の高台に住んでいる。だが、北海道は遙かに遠い過去の地となり、西陣に友人と呼べる知人はいない。今住む大津の宅地では隣人の名前すら知らないのだ。サラリーマンとして多くの時間と中国での十年間を、私は日本の地域住人との関わりもなく過ごしてきた。そんなつけが回りまわって、私は根無し草になっているような気がする。ワーカホリックの会社員によくあるタイプだ。

妻は歩いて10分のところにある共働きの娘夫婦の家へ行き、食事の世話や孫の養育に余念がない。そんな毎日が老後の生き甲斐なのだろう。一方の私は、中国で暮らしている約十年間、夏と春の大学の休暇時に一時帰国しているが、大津の自宅で暮らすこと一ヵ月で退屈してしまい、中国に戻りたくなったものだ。妻も粗大ゴミのようにごろごろしている厄介者の私には愛想をつかしていることだろう。今度帰国したら最後、我が家に永住しなければならない現実を想像すると、冷たい風が身体を吹き抜けるような気分になる。

江西師範大時代をふと思い出す。

我が宿舎はキャンパス内に立つ20階建ての高層ビルの一室にあった。そこは、大学の教師や職員が住むアパートになっていた。授業に行くために建物を出ると、老人が周辺にたむろして、孫をあやしながら、日向ぼっこをしているのをよく見かけたものだ。ゆったりとした時の流れに身を任せながら。

だが私は、「教師という仕事を持っているのだ。そこらの老人たちとは違う」と、少々うぬぼれていたが、それは正しかったのか? 一時帰国中に、私は孫と手をつないで公園を散歩したことなど一度もなかった。私は寂しい老人なのかもしれない。

人は、誰か心の通じ合う相手、できれば愛を注ぐことのできる対象を求めているのだろう。家内はそれを娘の家族の中に見出しているようだ。私には? もしかしたら、中国の教え子がそれに当たるのかもしれない。教え子と交流した日々に満足し、それを時々思い出しながら、日本で暮らすことにするか? だが、このノンフィクションのテーマ『人生二毛作時代を生きる』で、私は人生八十年の二毛作目の途上に今いる。残された時間(あと十年?)を、追憶だけで無為に過ごすのは惜しいとの思いもあるのだ。

 

中国で教師をしていた同業者で、今は日本へ帰国している友人がいった。

教師の道を諦めずに

私もこれにあやかろう。そう、教師の道を完全に諦める必要はない。この大学や上海の大学のように、棚からボタ餅で、幸運が巡ってくることだった皆無ではないのだから。

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