1 江蘇省無錫市

A 中国帰りの日本語教師は役立たずか?

インターネットで探し当てた無錫市の『無錫職業技術学院』の求人広告に応募した。面接試験はこの大学から依託を受けた東京の某日本語学校で行われた。ペーパテストなどはなく、30分ほどの面接試験を受けただけで、私ともう一人の女性教師の採用が決まった。ほっとして笑顔の私たちに、校長先生がズバリと言った。

「ところで、我が校の教師としてなら、あなた方のような中国帰りの教師は使い物になりません」

 戸惑いながらも私は彼の言いたいことを理解した。

その日本語学校には、日本の大学や大学院に進学する予定の留学生が通っている。日本語の講義が理解できる高度なレベルの日本語力をつけるのが目的なのだ。だから、留学生に数ヵ月から半年程度の短期間に効率的に日本語を教える技術に長けた教師でないと務まらないのだろう。

中国の大学日本語科で、我流で日本語を教えているような非効率な教育技術では、とてもこの校長先生の要求には応えられないということだ。

だが、日本語教師に求められている資質は、決して一様ではない。外国の大学にいる日本人教師は、単に日本語をあやつる技術を教えるだけに留まらない。学生と共に生活しながら、日本人の生活習慣や物の考え方を理解させたり、西安編で記述したように、作文の指導をつうじて成長期の若者に人生や人間の生き方を考えさせるようなことも、大学教育では意義のあることだ、と私は考えている。一方、上の日本語学校ではそのような事は余り必要ないであろう。

 

月を見ると故郷を思う

長安大学で学生と中秋の名月を祝ったときのことであった。私が買った月餅を食べながら、運動場で車座になって月を眺めていた。西安から遠く離れた黒竜江省出身の胡が、私の傍らでしんみりと漏らした。

「故郷の母のことを思い出します」

 彼女はそのとき、李白の静夜思『頭を挙げて山月を望み、頭を低れて故郷を思う』の気持でいたのだろう。

「そうか。きっとお母さんも、いま胡さんのことを思っているのだろうね」

 と、私が応えた。

 中国の学生は故郷を離れて大学の寄宿舎生活をしている。授業を離れたところでも、日本人教師は同じキャンパスで学生と共に生活しているのだ。ときには父親(祖父?)代わりのような役割をはたすこともある。そんなことも、定年退職後に、老後の生き甲斐をもとめて中国にやってきた私の喜びである。

 スピーチコンテストでは学内予選から始まり、選ばれた代表者を指導し、大会の会場まで出向く、代表者が入賞すれば共に喜び合うなど、最後まで学生と苦楽を共にしている。教務主任からは「お世話をお願いします」の一言だけだが、中国の大学の日本人教師はこのような無料奉仕に全力を挙げて取り組んでいるのだ。

 

「ところで」と、校長先生が我々の方に顔を寄せていった。「前年度赴任した女性の日本人教師が事件に巻き込まれましてね」

 コンピュータ学院の男子教師がその女性教師に横恋慕した。彼女はパソコンなどの使い方でその男の世話になっているので、親しい付き合いをした。それを男の方が誤解して、あるとき彼女を男の家に連れて行って、両親に紹介した。中国では親に紹介するような場合には結婚が前提になっているという。だが、女性教師は日本に恋人がおり、男性教師とは単なる付き合いのつもりでいた。それが二人の行き違いになり、男の方が逆上して、ストーカー行為に及んだという。精神的に参った女性教師は任期数ヵ月を残して、日本へ帰ってしまった。

だからと、校長先生が、今度私と一緒に赴任する女性教師に向かっていった。

「あなたも、中国人男性との付き合いには、注意してくださいね。それからお二人には万が一に備えて、携帯電話だけは常時身につけるようにしてください」

 私が生まれてはじめて携帯電話(ガラ系)を買ったのは、無錫に赴任してからだった。

  

戦禍の影響

 9月はじめに無錫職業技術学院に赴任した。この大学は短期大学であるが、日本と違って三年制である。ここで、2年生に会話と作文の授業を担当することになった。

 

 江蘇省は上海市の北に隣接し、上海から高速列車に乗れば、蘇州、無錫、常州、鎮江、そして省都南京に一時間少々で着く。江蘇省は古来『魚米の里』と呼ばれ、晩唐の詩人杜牧の『江南の春』に描かれているような長江デルタ地域にある気候温暖で歴史のある地である。また、これらの都市に日系企業が多数進出していることでも知られている。

 

ところが、これらの都市は日中戦争の戦場でもあった。第二次上海事変では、国民党を撃破した日本軍は南京に急進した。進軍の途上でこれら都市周辺では食糧の略奪と抵抗する民間人が殺害された。さらに南京では史上有名な『大虐殺』があったとされている。

 

 私が教えることになった2年生の中には、南京をはじめこれらの都市の出身者がいた。彼らが祖父母から日本軍の残虐行為を聞いているかもしれないので、私に対してどのような感情を抱いているのだろうかと、ちょっと心配していた。しかし、それは杞憂におわり、彼らは長安大の学生と同様に私に対してとても従順で好意的に接してくれたのは、有り難かった。

 とすれば、中国滞在中に北京や広州、上海などの大都市で数度発生した激しい反日デモに参加している学生と較べて日本語科の学生は、なぜこうも違うのだろうか、と疑問が湧いてくる。日本語科の学生の多くが女性であること、日本語の学習を通じて現代日本への正しい知識を持っていること、卒業後日系企業へ就職したいと考えていること、そして日本人教師が学生に献身的に尽くしていることなどにより、親日的だと考えられるのだ。だから、日中の友好関係維持のためには、日本語科の学生の存在は貴重であるが、最近の日中関係の悪化により、日本語科に進学する学生が減少しているのは残念である。

 

C 失望

授業が始まった。一学年の学生数が、長安大学の189人に対して50人と二倍以上に増えていた。しかし、学生は2クラスに分けられており、一クラス25人程度の学生数だから長安大より少し多いだけで特に教育上支障はなかった。

しかし、この学校の日本語科について、ここで多くを語るのをやめておこう(詳しくは「大学写真集」の項を参照されたい)。一言でいえば、長安大学の日本語科と比べて、教務主任、教師、学生の質などすべての点で劣っていた。長安大学日本語科は、私の赴任時に新設されたばかりで、教育体制がまだ確立されていなかったにも関わらずである。

この大学では私が望む教育ができないことが分かり、一年間勤めただけで退職した。私が中国で働いた5つの大学の中で、自分の意思で辞めたのはこの学校だけであった。この頃、私は645歳だったが、当時は北京政府による年齢制限が厳しくなかったので、選り好みさえしなければどこかよりましな大学に就職できると考えていたのだ。じじつ、江西師範大学に就職できた。

無錫職業技術学院に在籍中、二つの印象に残る経験があった。一つは我が寄る辺なき田舎教師の身の上を思い知らされたことと、もう一つはそんな私を思慕してくれる教え子の存在である。

 

寄らば大樹の陰

D 寄らば大樹の陰なき者

無錫の学校で会話を教えはじめて23ヵ月経ったころ、ヘンな発音をする男子学生に気付いた。彼は会話能力が低かったが、それでいて作文をさせるととても優れた内容を書いてくる学生だった。

彼の発音上の欠点は、例えば、来年を[イネン]、とか奈良を[]と発音することだった。後で分かったことだが、これは音声学上、LN音混同とよばれるものだ。つまりL音(ラリルレロ)とN音(ナニヌネノ)を混同あるいは区別できない現象である。このようなLN音混同者は南方方言圏で認められ、方言(母語)の影響によるものらしい。だから、中国人教師なら知っているはずであるが、日本語の発音は、会話授業担当の日本人教師に任せておいたらいいとでも思っているのか関心が薄く、私にアドバイスしてくれる中国人教師はいなかった。

LN音混同者を放置すれば、会話能力の修得の妨げとなると考えたが、彼を指導して矯正すべき方法が私には思いつかなかった。そこで、西安市の日本語教師会に参加したときに知り合った宮本さんにメールで問い合わせてみた。彼女は私と同じ時期に日本語教師を始め、西安の名門校である『西安交通大学』に勤務していた。

宮本さんからさっそく返事がきた。

 --日本語科の教師の勉強会で、そのような問題を議論したことがあります。教授は、LN音混同者には教師が適切な指導を粘り強くおこなえば必ず矯正できる、と仰っていますよ。関連する文献をご紹介しますので、ご参考になさってください。森野さん頑張ってくださいね。

彼女が紹介してくれた文献が参考になって、LN音混同者を見つけ出すテスト法や、混同者の矯正訓練プログラムを開発することができ、後の教育活動に役立てている(注)

だから、宮本さんの助言には勇気づけられたし、有り難かったが、同時に、同じ頃に教師をはじめた彼女と私の間に、まだ二年少々しか経過していないのに、教師としての能力に大きな差がついている現実を思い知らされることにもなったのだ。

『寄らば大樹の陰』だろうか、西安交通大学という大学院まで併設されている名門大学に所属して、学研的雰囲気の中で有益な情報を得、教師同士が切磋琢磨できる環境に身を置く彼女と比べて、孤立無援の我が身の悲哀を感じざるを得なかった。

だが、私は会社定年退職を機に研究者生活から足を洗い、未知の業界に飛び込んだのだ。そんな無名の私が、宮本さんが所属しているような名門校に雇われるはずがない。発足間もない長安大学日本語科を振り出しに、二流・三流の大学日本語科で田舎教師の身分に甘んじるしか他に手だてがなかった。

それでも、私の赴く大学には日本人の私を待っている学習意欲のある若者がいると信じたかった。じじつ、長安大学では18人の学生が私に絶大な信頼を寄せて、生活を共にしてくれたではないか。私は未熟な教師ながら、彼らのために精一杯の自助努力をしてきたのだ。それが老後の生き甲斐だった。

 

(注)LN音識別テストやLN音混同者の矯正訓練にご関心のある方はここ

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