2 中国語の発音トラブル

運転手の南昌方言に戸惑う
南昌空港からリムジンバスに乗車

●南昌方言での失敗

 十[shi 1声 シ]を[si 1声 ス]と発音する南昌方言を聞き間違えた失敗があった。

 5年ほど前に江西師範大学に勤務していた。春節休暇後に、飛行機で日本から南昌空港に降り立った。

 空港から南昌市の都心へいくリムジンバスに乗った。運転手に「多少」(運賃はいくら?)と訊くと、[si ス]という。『普通話』しか知らない私には、数字に関わる「si」なら四としか聴き取れないが、4元では安すぎるので、40元だと早とちりした。料金箱に10元札四枚をいれたら、運転手が「不是、不是 si」(違うちがう、10元だ)と首を横に振るが、私には意味がわからない。

 向こうの座席の中国人が英語で「ten RMB」(10元だ)というので、ようやく間違いに気づいた。金を返してくれと、ジェスチャで要求したが、運転手は首を横に振る。料金箱は開けられないから、金は返せないという意味らしい。運転手が指さす方を振り向くと、客が車に乗り込んで来るのが見えた。私は「Give me 10 yuan, please!」と言いながら、3人の乗客から10元ずつ金を受け取る。向こうの座席の方から乗客たちの笑い声が聞こえてきた。まるで女車掌のような振る舞いをしているようで、私は赤面した。

 

大連の有名書店

●大連の書店での失敗

 大連に「新華書店」という大型書店がある。

 その入り口で、「Where are Japanese books?」(和書はどこにあるの?)と英語の分かる店員に訊くと、「Please go to the 5th floor.」(五階へ行ってください)と言った。

 五階へいって女店員に「日语书角在哪里?」(和書コーナーはどこ?)と訊くと、「一楼」(一階)と言うのだ。

 一階へ下りて同じ店員に「Where are Japanese books?」と訊くと、やっぱり「Please go to the 5th floor.」と笑いながら言った。

 また五階へ行って女店員に「日语书角在哪里?」と訊くと、「一楼」と言うので、私は怒りだしてしまった。

 やむなく紙に書くと、店員はようやく理解してくれた。

 私は「日语书ri yu shu;リユゥシュ)」と言ったつもりが、店員には「旅游(lü you shu;リゥヨウシュ)」(旅行ガイドブック)と聞こえたのでしょう。私の四声の発音が曖昧なら、後者に取られても仕方がないのだろうか? 

([ü ]はドイツ語の[uウムラウト]と同様でイとウの中間音)

 

 翌日、会話の教師にそのことを伝えると、教師が私に発音させた。すると、私が[r]を[l]と発音している誤りを指摘してくれた。日本人は英語の発音でも[r]と[l]の区別が苦手である。そのうえ中国語の[r]は両唇を上下にめくって発音しなければならないので、もっと難しい。

 

 私は大学でドイツ語を習ったし、ドイツ歌曲がすきだった。だから喉の奥から発声するようなドイツ語特有の発音には慣れている。その経験から中国語の「和」「合」「河」などの[he]のような喉の奥から絞り出すような発音は比較的容易にできる(会話教師からも「あなたの[he]の発音はよろしい」とほめられた)。

 そのほかに、たとえば「我是」(3声+4声)では「我」は半三声(はじめの下降音を軽く発声して後につづける)ことなども厳しく指導を受けている。これは中国人(学生の)家庭教師でも知らないことだ。知らないというより子供の時から無意識に覚えているので、<半三声の法則>に気づいていないだけのことなのだろう(注) 。

(注)だから、中国人なら誰でも外国人に中国語を教えることができるというのではない。やはり、プロの中国語教師が必要なのだ。日本語教育でも同様である。私が「日本語教師をしています」というと、日本人の中には「あら、そう。日本語なら私にだって簡単に教えることができる」と思っている人がいるが、そうではないのだ。外国人に正しい日本語を効率的に教える技術を持っているのがプロの日本語教師であることを知ってほしい。

 一方、「我想」(3声+3声)の「我」は2声として発声して後につづけるなど、たくさんある「3声」の単語の発音は、ケースバイケースで覚えるのに苦労している。

 

 このような中国語の発音訓練は、退屈で苦労が多いだけなので楽しくない。だから、日本の会話学校では教師は発音を厳しく指導すると学習者に嫌われるのであまり熱心でないようである。私は中国ならではの厳しい発音の指導を受けるのが好きである(マゾヒストか?)。だから、教師も特に私に厳しく指導してくれて有り難い。

 私は気付いた。中級コースに数年在籍している留学生の中には、会話能力では私より優れているが、発音はそれほどでもない人もいる。これは日本語教育でも同様で、1年生のときには正しい発音を徹底的に修得させられるが、3,4年生になると発音を疎かにしている学生がいるのだ。しかし、その段階になると正しい発音への修正が困難なことを、私は経験している。私は今、中国語の初心者なので発音に忠実であろうと努力しているが、だんだん会話力がついてくると、「言いたいことが言えればいい、意味が分かればいい。発音などは二の次だ」と安逸に流れて、発音がおろそかになるのかもしれない。

 それにしても、中級コースにいる留学生仲間の会話能力にはかなわない。彼らが教師と自由自在に会話をしているのを眺めていると、私が彼らのレベルに達するのは何年先のことだろうかと、ちょっと羨ましくも、前途悠遠なる道への不安がある。

 

 私が会社で研究員であった頃には、仕事に役立てる目的で必死に英会話を勉強していたときもあった。それは、会社でよりよい地位を得るためである。だが今、71歳の私に中国語を学ぶ確たる目的があるわけではない。趣味として? 毎日が充実していたらいい? 私は、人生の黄昏期にあり、社会に何の役にもたちそうにない老人の身の上だ。『○○の為に○○をしなければならない』といった若い頃の強迫観念から解き放たれたところに、今の気楽で自由な生き方があるのではないだろうか?ーーとも思えるのだ。

 

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