会社の友人~~掃き溜めに鶴

~~会社での友情とは~~

とかく利害が複雑にからみ合い、またライバル関係になりかねない会社の中で、友情は育たないものなのだろうか? 私はそのことで痛切な悔悟の思い出があった。 

 

 私が勤務していた研究所に佐川という私と同年配の男がいた。佐川と私は同じ部に所属したことがあり、それ以来二人は親しくなった。私が課長のときに佐川は部長代理、私が部長代理のときに佐川は部長と、いつも彼の方が一ランク上だったが、対等な付き合いがつづいていた。

製薬会社の研究所の業務は、大きく分けて、

合成・薬理部門で新薬の卵を発見し、薬物動態・安全性部門が有効で安全な新薬に育て上げる役割分担がある。佐川と私は後者の部門に属していた。安全性研究は法規により、管理責任者の佐川には常に個室が与えられていた。社内は禁煙だったが、佐川の部屋では自由に吸えた。さらに、納入業者差し入れのブランディーやウィスキーが佐川の戸棚に隠し保管されていた。

 私はよく佐川の部屋に出向き、紅茶にブランディーを少し混ぜて飲んだ。社内では飲酒厳禁であったが、赤ら顔の佐川とテニスで黒く灼けている私は、まるで教師の目を盗んで悪事をはたらき、舌をぺろりと出して喜び合う悪ガキのように、密やかな喜びを共有していた。残業で忙しくしている部下を尻目に、佐川と私は、早々に退社して会社近くの飲み屋に入り浸ることもあった。

二人は、合成・薬理部門の独善的態度をやり玉にあげていたし、公平さを欠いた運営をしている研究所長批判をよくやって溜飲が下がるのを楽しんでいた。佐川の舌鋒鋭く執拗な他部門批判を聞いていると、

――もしこの男を、敵に回すようなことになったときには、手強い相手になるのではないか?

 

私はふっとそう思うこともあったが、これまではそのようなこともなく、よい関係が続いた。厚労省への申請業務や提携会社との会議などで、東京へ一緒に出張することがよくあった。席上、佐川が厳しい質問をうけて困惑の表情を見せると私は直ちに相の手を入れたし、佐川も私を助けた。

 それは、単なる会社の同僚という枠を越えた、友情のようなものが相互にあったからだ。帰りの新幹線の車内ではビール党の二人は、缶ビールで今日一日無事に仕事を終えたことの祝杯をあげながら、ほろ酔い気分で帰った。

 

■佐川が上司となる

 そのうちに、佐川は研究所を出て外国部へ異動し、重役に昇進した。この頃から佐川が私に対して研究所時代のようなザックバランな態度がなりを潜めてきたように思えた。たぶん、そう思うのは私のひがみ根性によるもので、佐川はその頃から有能な会社幹部へと脱皮しようとしていたのだろう。

 私のような研究者一筋といえば聞こえはいいが、研究所を一歩でれば何の使い道もないような無能者とくらべて、佐川は会社全体を見渡せる広い視野をもつ実力者なのだろう。

私は55歳のとき、研究開発本部の人事異動により、第二研究所長を拝命した。そして、佐川が横滑りの形で研究開発副本部長(重役)に就任した。こうして、私ははじめて佐川の部下となった。

会社ではこういうことがあるものだ。佐川との過去の友人関係はひとまず措いて、部下に徹していこう、と私は決意した。 

 半年後から、海外導出・海外委託製造・北海道工場への技術移管など、私の第二研究所に関わる業務は多忙を極めた。そこに北海道工場との関係で難問が発生した。

 佐川副本部長の日頃のモットーは『問題が発生したら即行動をおこす』であった。私は佐川のそんな決断力を高く評価していた。だが、その速やかな行動が相手にとって迷惑となる場合もあるのだ。そのとき北海道工場は、道庁薬務局の査察を受けるための準備で大童であり、他の問題に対応する余裕のないことを、部下からの報告で私は知った。

 

 

 

会社を去る

 北海道工場への対策会議が開かれた。

佐川は私に「すぐにも北海道工場へ出向いて問題の解決にあたるべきだ」と主張した。

 一方、私は事情を説明して、「今はいくべきではない」と反論した。

 議論は平行線をたどり、数度のやりとりの後、ついに私は怒鳴ってしまった。

「これだけ言っているのになぜ分からないのだ!」

 翌日から佐川は私に口をきかなくなっていた。そして、二、三日後、研究開発本部の幹部の飲み会があった。

酔いが回って酒席が活気づいてきた頃、佐川が私と二、三言葉を交わしてから、いきなり私の胸ぐらをつかんだ。佐川の赤ら顔は赤黒く怒りに充ちみちていた。しかし、私はいっさい抵抗をしなかった。もし佐川が殴りかかってきたとしても私は堪えたであろう。

 あの会議で、上司が自己の信念にもとづいて主張し、部下も自己の情報に基づいてそれに反論した。互いに己の信ずることを主張する限り、それはそれでいい。部下が一方的に折れる必要はない。必要なら本部長が判断を下して、どちらかの意見を採用すればいいことなのだ。私はそう信じていた。

 にも関わらず、私が怒鳴ってしまったのは、佐川に対する格別の思い入れがあったからだ。

 ――佐川よ。お前とオレは研究所時代からの肝胆相照らす仲ではないのか。オレがこれだけ言っていることをなぜ分かってくれないのだ。友達甲斐のないヤツめ!

だが、これは『私情』の吐露である。甘えである。会社で絶対やってはいけない『公私混同』なのだ。そして上司の体面を甚だしく傷つけたことにもなる。

 私はこう己を責めた。

 

 その後、佐川と私は表面上は友好的な上司部下の関係を保っていたが、心を許す関係には戻らなかった。

 一年後、佐川は資材輸出入部担当の重役として異動した。

あるとき、私の元部下で今は佐川の部下となっている男に仲介してもらって、一席持つことにした。上司部下の関係が切れた今、私はもう一度、佐川と仲直りしたかったのだ。佐川は韓国出張から帰国したばかりで、風邪気味だったそう思いながら会社を後にした。

 が、義理で出てきたという態度が透けてみえた。もう、研究所時代のような楽しいかたらいは影をひそめており、少しも快く酔う気分にはなれなかった。

 ーー覆水盆に還らず。

 私はもうこれっきりにすようと決意した。 

 

 

■消えた掃き溜めの鶴

2003626日、60歳の誕生日に、私は定年退職した。恒例の各部署への挨拶回りがある。佐川の部署にも行った。挨拶すると、佐川は同室の部下たちに大きな声で紹介した。

「皆さん起立! 第二研の所長様が、定年退職のご挨拶にこられました。長い間お世話になり、ありがとうございました」

 佐川が深々と頭を下げながらいうと、部下たちも、「ありがとうございました」と唱和した。

 佐川の部署を辞して会社の構内を歩きながら、佐川のわざとらしい大仰な態度を思い続けた。私にとって、今日一日の別れの中で、これほど偽善に充ちて、屈辱的な思いにさせられたことはない。

 もう、何時帰ってもよかったが、私は夕刻までとどまった。

 じつは、退社まで一、二ヵ月を残すのみとなった頃に、身辺整理をしていたら古い社内報が出てきた。そこに懐かしいエッセイが掲載されていた。入社34年目に書いたものである。

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~~掃き溜めに鶴~~

私の職場は、勢多川の支流沿いにある研究所の建物の一階である。

好きな宮本輝の小説の題名をそのまま拝借したような『泥の河』が研究所の傍を流れており、時々猫や犬の屍体まで浮かんでいる。悪臭が研究所まで漂ってくるので、職場の窓を開けることもできない。

 研究所前の通りをちょっと西に向かうと、その川に小橋が架かっている。

 ある日、帰りがけに橋のあたりを眺めると、パステル画を思い出すような美しい光景が浮かび上がっていた。

太陽が西の山際にしずむころ、橋の周辺には青味が退色するにつれて、淡い紅色がさしてくる。時の移ろいの中で茜色を増しながら、裸電球の光線がアクセントをつくる。やがて、その鮮やかな色も褪せて、闇が橋の上に忍び寄る。それからは、殺風景な電灯の明りだけが残り、なんの変哲もない工場地帯の夜景が橋を支配した。

 もっとも美しいときは、ほんの十数分間だけだったが、見とれていた私は、

 ――これは、掃き溜めに鶴!

 と思った。

私は、理科系人間で、絵画的センスにも欠けているのに、この美観に心を奪われている自分が、信じられないほどである。

 

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夕暮れの小橋

     

 

  

   このエッセイを書いてから何年か後に、新築の研究所に移ったので、もうその川と小橋のことも忘れてしまっていた。  

 が、このエッセイを見つけたことがきっかけとなり、退職するこの日、もう一度あの小橋に行ってみたい、と思った。

会社の敷地の外側を一巡してから、小橋に立つ。悪臭はまったく無かった。護岸工事が施され、セメントで固められている河床の中央の溝には、清水が流れている。川上に眼をやれば、ところどころに樹が植えられている。まるで高級住宅地の中を流れる川のようである。あれから、30年のときを経て、都市環境の激変を目の当たりにした思いである。そして黄昏どき、ちょっと離れたところから、橋の辺りを眺めてみた。

 が、もう『鶴』はいなかった。そのとき、ふっと佐川を思った。

 部門間競争、上司部下・仲間同士の軋轢、出世レース、様々の打算やエゴが渦巻く会社の中に、友情があり得るのだろうか? もしあるとしたら、それは『掃き溜めに鶴』のような、かけがえの無いものだろう。が、天は人に会社の環境という厳しい試練を与えて、友情を試しているのだ。私はその試練に耐える覚悟も何もないまま、あっさりと『鶴』を捨ててしまった。自分はその程度の人間にすぎないのだろう、50歳をとうに過ぎて、人間的に成熟しているはずなのに。 

会社を去る

 そう思いながら会社を後にした。

 

 それから2、3年後、私は日本語教師として西安市にいる。こちらで数度夢を見た。そのなかで、佐川が我が名前をしきりに呼びながら擦り寄ってくるのだ。そのつど、私は「うるさい! 近寄るな」と怒鳴り散らす。そして、目を覚ます。フロイトの夢分析ではどう解釈されるのだろうか? 街灯に照らされて揺れる窓外の樹々を眺めながら私は考える。

 こんな夢をそれからも、年に一、二度見ることになる。夢を見なくなったのは、中国へ来て五年くらい経ってからだった。