あるサラリーマンの五十代

わたしは、ついこの前、ある大企業の経営者をやめた人と、居酒屋で酒を飲んだ。

    江坂彰:経済評論家

 精神的骨格のすぐれた元経営者から、教えられたことがおおい。人生の深みを知っている。互いに遠慮なく話もはずむ。それだけではない。彼は私の友人の中で、ただ一人、大企業のトップにまでのぼりつめた男である。

「あのねえ、正直いってほしい。貴方の五十代はどんな時代だったの、面白かった? 自信たっぷり? それとも将来に対するぼんやりとした不安 ・・・・」

 しばらく考え込んで「(オレのサラリーマンとしての五十代とは、)まあ、泣かされる年代だったナ」と彼。

 そして、彼の述懐が続く。

 辛いことが重なった。五十の坂にさしかかったとき親父が死んだ。親父は和歌山の山中の寒村生まれ。戦争から帰って、ちっぽけな田畑を耕し、みかん山の手伝いや出稼ぎをやって懸命に働き、子どもたちに飯をくわせてくれただけじゃない。教育という大変な財産を残してくれた。

 オレが東京の大学へ行きたいといったとき、「どこにそんな金がある」となげく母親の反対を押し切って、自慢の牛を手放した。自分のわがままが親父の命をちぢめてしまったと思うと、いまでも切なくなる。

 それだけじゃない。

 月々火水木金々の猛烈社員だったものだから、家庭のことはすべて女房まかせ。子どもがグレて女房が困っているのに、相談に乗ってやらなかった。上の空で聞いていた。女房まで気がおかしくなり、家中が暗くなり、どんどん冷えていった。そこで、立ち止まって自分の生き方をもう一度考えてみればよいのに、人間というものは弱いものですナー、ますます仕事にのめりこむことで憂さを晴らしていた。むろんあとひと頑張りで常務だ、という私欲と気負いがあった。

 しかし悪いことは重なるもの。会社の将来に緊張感をもたないトップと意見が衝突して、子会社に飛ばされてしまった。業界紙で、あの男も、もうこれでおしまいだろうと叩かれた。昔かわいがっていた部下が子会社に遊びにきたが、貴方は目の力を失っている、生気が感じられないと、まるで自分のことのように泣いた。女房どころか、オレまで軽い鬱にかかってしまった。

 五十代は定年も近づき、サラリーマン出世双六の終わりも見えてきた。この年代は美しく老いていきたいものだとよく識者がいうが、しかしその美しく老いることが、如何にむずかしいかがわかった。

 煩悩の深みにはまる。やれ子会社行きだ、リストラだ、選択定年だ、みな目の色を変える。心が細くなりとげとげしくなる。人の足を引っぱり自己保身に走る。 

 ――ほんとうに泣かされる年代だったよ。

「そのピンチをどうやって切り抜けたの?」

 一つはユングの言葉。中高年の心の屈折――大病、愛する両親や傷害を持った子供の死、妻との別れ、失業などは、人間再生へのバネであるというはげまし。

 昔とちがっていまは人生八十年時代。もう一山こえなければならない。一度ころんで自分と向かい合うと、もう一山こえるためには、何が自分に欠けているかがよくわかる。オレに欠けていたのはゆとりと廉直の精神。オレが懸命に頑張っているから、お前たちをくわせてやっている、こんなに贅沢させてやっているのに、お前のナマクラは何だという白い目に、子どもは耐えられなかったのかもしれない。

 その傲慢さは、自信たっぷりで上昇志向の強すぎるオレ自身の、家族に対する甘えだということにおそらく家内もきづいていたと思う。何十年も連れそった夫婦だから、何でもわかり合えるというのは貧しい時代の話で、いまはそれだけじゃ通用しませんね。やはり言葉が必要ですよ。

 家庭破壊の責任が自分にもあることを認めることによって、女房は少しずつ口をきいてくれるようになった。気のせいか息子のほうも以前のように父親を避けなくなった。

 むろんモノは豊かなほうがよい。人生は暗いより明るいほうがよいのに決まっているが、五十代で悩み苦しみ、心の屈折を経験することは、決して悪いことばかりじゃない。一度ぐらい軽い鬱ぐらいにかかって、そこをくぐり抜けて人ははじめて美しく老いていけるのじゃないかナ。

 五十にもなって背中に淋しさがにじみ出ない男など、たいしたことはない。

 

 以上は「定年後。こう考えればラクになる」(江坂彰 PHP文庫 2006年)より

 

【森野の感想】ここに登場するサラリーマンは社長にも上り詰めた有能な人物なので、私のような一介のサラリーマンと同一視することはできない。にも関わらずこの男の五十代は私のその頃と重なるところが多いのに驚く。それは決して人に自慢できるようなことではなく、むしろ会社でも家庭でも苦渋に満ちたことばかりだ。だからこそ私はとてもこの男の五十代の人生に共感を覚えるし、その後の人生にも興味があるのだ。

 

■江坂彰氏は上の著書で次のようにも述べている。

  

――『人生八十年の高齢化時代』を『人生二毛作時代』ととらえている。一毛作目は会社で働く時期で、昔は一毛作目で人生が終わってしまうケースが多かった。しかし、今はみんなに二毛作目のチャンスがある。この二毛作目はやりたいことを思う存分やれる時期であり、一毛作目とは別の人生、まったく新しい人生を送ることができる。これは豊かさが生んだ「生き方革命」だといっていいだろう。

戻るーー>