大学生活写真集

軍服を着た女学生

最初の大学「長安大学」へは新学期が始まった約1ヵ月半後の10月半ばに赴任したので知らなかったが、中国の大学では新一年生に約1ヵ月間の「軍事教練」をすることになっている。ここ無錫の大学に9月はじめに赴任してまもなく、私は学内を迷彩色の軍服を身にまとった女学生が闊歩しているのに出くわした。そして、授業中にも、訓練中の一年生の「えいや」という叫び声が外からきこえてきた。

 日本では先の大戦の反省もあって、戦後の日本人は軍隊は悪だとの意識が強いので、学生が軍人に訓練してもらおうなどという発想は全く無い。しかしここ中国では、日帝の侵略に雄々しく戦った赤軍が国民から尊敬をうけており、大学への順応力をつけさせるために、一年生は若手軍人から軍隊式規律を教え込まれることになっているらしい。このことは、次の赴任校「江西師範大学」でも同様であった。

 ただし、この訓練中に規律正しく行動していた女学生は、それが終わると普通の現代っ子に戻ってしまい、2年生にもなるとあのような厳しい訓練の成果がどこにも感じられなくなっていた。しかも、若手教官と女学生のラブロマンスまで時にあるようだ。 

江蘇省各地出身の学生

この大学で私が教えた2年生は全員江蘇省出身者であった。地元無錫だけでなく、省都南京、遣唐使の入唐ルートであった鎮江・揚州、日中戦争の激戦地だった徐州、孫悟空の故郷連雲港など江蘇省各地からの出身者だった。

オーディオ室のスピーチコンテスト

この写真は日本語科2年生の教室内スピーチコンテストの教室風景である。このオーディオルームは2教室あって、間がガラスで仕切られている。

 向こう側の教室ではどんな授業をしているのかと、休憩時間に両教室を隔てているガラス越しにのぞき見してみた。すぐ近くに最後列の学生のディスプレイが手に取るように見えた。そこには、教師の示した図や文字ではなく、漫画のような絵がせわしなく動いている。男子学生たちはパソコンゲームをやっていたのだ。もちろん、教師がそれを知らないだろうし、もし近くに歩いてくる気配を察知したら、学生は素早く画面を切り替えるだろう。

 前列や真ん中あたりにいる学生はまじめに授業を受けているだろうが、この短大には授業中にゲームで遊んでいる質の悪い学生がいるのだ。彼らは入学試験の成績が悪いので、四年制の大学に入れなかった劣等生なのだろう。

 2000年頃から、国家政策で、大学生の数が急増している。大学に入る資質に欠ける学生も増えているようだ。子供のために苦しい家計の中から学費を捻出している親も少なくないだろうに、それを裏切る親不孝者がいる。私は長安大学では見たこともないこんな学生の姿を見て、この大学に失望しかけた。

 ところで、2年生のスピーチコンテストはとても盛り上がり、成果があったことも紹介したい。下は各グループの優勝者のそろい踏みである。 

スピーチコンテストの表彰式

44人の学生を7、8人からなる6グループに分けて、競い合った(クリスマスの日、暖房設備の無い寒い教室で、学生はオーバーコートに身を包んでの熱戦!)。各グループの優勝者の中、5人の女学生は皆、学業成績優秀者なので順当なところだった。2年生の男女比は、10人対34人なので、日頃、学力で女学生に圧倒されている男子学生が2人優勝したのは、大健闘だと私は喜びたい。

ところで、右端の殷飛くんは、三国志の英雄豪傑に負けない猛々しい名前なのに、花をこよなく愛する心優しい若者だ。将来花の栽培業で生計をたてるのが夢の彼は、学生寮の空き地に水仙を植えて、1月13日に最初に咲いた花一輪を我が宿舎に届けてくれた。むくつけき森野老師の殺風景な応接室に華やいだ雰囲気が・・・・・・。彼が日本語学習者として成功するかどうかは分からないが、こんな個性のある若者が日本語科にいてもいい。彼が今どうしているかは分からない。

我が宿舎で学生と交流会

わたしは、この大学で、本科の2年生に会話と作文の授業を担当しただけでなく、他の学部(机電/日語科)の学生の会話授業もした。中国語では「机」とは機械を意味するので、机電とは電気機械(工学)科という意味だろう。ところが、この科は3年間工学系の授業を受けた上に、更に1年間は日本語の授業を受けることになっており、短大の中に4年制の学科があるというユニークさが特徴である。

 しかし、1年程度の日本語教育では、よほど熱意のある学生でない限り、結局中途半端な知識の修得で終わってしまうのだ。授業では、意欲のある女学生が前列中央部を占め、周辺後部座席には意欲不足の男子学生がいる。そして、周辺後部座席から絶え間なく私語がささやかれて、教室内がザワついている。「私語をやめなさい!」と注意しても、五分後には又私語が繰り返される。わたしは、この授業をする意欲を失ってしまった。はたせるかな、私が大学を去った翌年からこの学科は廃止されたという。

 

 では、日本語教師としての私が最も力をいれて教育しなければならない、日本語本科2年生はどうであったろう。

 赴任まもなく分かったことは、私とまともに会話ができない2年生が少なからずいるということであった(長安大学では、2年生になれば誰でも私とは何とか会話ができるレベルであったのに)。だが、これは彼らの学習意欲不足だけで片付けられることではなかった。学生が1年生のときから、会話授業を週に一回しか受けていないという、この短大の教育体制の欠陥とも関連していると思えるのだ。 わたしは、「正規の授業に加えて、自主授業もやりたい」と教務主任に願い出た。若き教務主任は、「それはうれしいことですが、学期がはじまっているので、先生にお手当の増額ができませんが、それでもいいのですか」と言った。わたしは、「それでもかまわない」と返事した。こうして自主授業がはじまったが、上下二クラスにレベル分けして能力主義を貫くことにした。

 下のクラスの学力不振の学生を職員室に呼び出して激励した。だが、会話能力が低いので、中国人教師に通訳してもらわねばならなかった。私の厳しい指摘で泣き出す女学生もいた。

 こうして始まった週二回の会話授業だが、数ヵ月程度で目に見える成果が現れるわけではない。私は春節(旧正月)明けの後期授業でも、自主授業を継続したいと教務主任に申しでたら、「まだおやりになるのですか?」と言われてショックを受けた。

 私の積極的な、しかし厳しい指導方法に迷惑しているのだろうか?

 あるいは、二期続けて無料奉仕を受けることに大学の管理者として、心苦しいとの遠慮があるのだろうか? 教務主任の真意が分からず、私はとまどった。更に、学生の中から「後期授業では、別の科目が増えたので、もう自主授業は受けたくない」という者まで現れた。教務主任からも学生からも歓迎されないような自主授業を私があえてやる必要などあるものか! 私は学生に自主授業は中止する、と宣言した。私はこういったものの「ぜひ、自主授業を続けてください」と申し出てくる学生のいることに密かに期待していた。だが、そのような学生は皆無だった。

学生寮と我が宿舎は同じキャンパスにあり、しばしば学生が私を訪問し、食事しながらの楽しい交流ができた。だが、肝心の学生の授業姿勢がこれでは、私には満足できないのだ。結局、私は1年でこの短大を去る決意をした。

 私には、中国人教師の消極的な姿勢にも不満があった。たとえば、2年生の「精読授業」を担当している若き女教師は、一年間職員室で生活している間、一度も私に話しかけることが無かった。はじめのうちは彼女が私を嫌っているのではないかと疑ったが、そうでもないらしい。科目は違っても、同じ2年生を教えているのだから、教師同士が話し合えば有効な教育が出来るはずなのに。話せば、彼女の日本語会話能力の低さを私に知られることを恐れたからではないだろうかとも思う。ならば、私の方から積極的に話しかける努力をすべきであったとの反省もある。だが、こんな消極的で頼りない教師と話し合ってもしょうがない、と私は彼女を見限った。 

 一人例外的に、私に積極的に話しかけて質問する教師がいた。日中の交渉を担当する公務員から当短大の教師になった中年の男性である。彼の質問を受けていて、長安大学の教師連絡会で教務主任や若手教師に質問攻めにあったことを懐かしく思い出した。質問をする教師は能力が低いからではなくて、よりよき授業をしようとする熱意があるからだと思う。私がこの短大を去って数年後、その男性教師が日本語科の教務主任に抜擢されたことを聞いて、私は納得した。彼は、会話授業の週二回の制度化など、日本語科の教育改革を断行したという。教務主任の積極性ひとつで、日本語科はいい方に変わるものだと思う。

 

孔子74代の子孫

 孔子の子孫に会う

無錫市の日本語交流会で「孔子の第74代」の子孫を名のる「孔」とう苗字の男性に会った。珍しいので写真を撮らせていただいた。ただし、現在分かっているだけで孔子の子孫は世界中で200万人以上と言われている。こんなに子孫が多いのだから、その一人に無錫で会ったことは珍しいことではないかもしれないが、その方が私と日本語でお話になるというのはやはり特別のことと申せましょう。「孔」という名前は「陳」や「劉」「王」ほど中国で一般的ではなく、私が教えた5大学の学生の中では、1,2名にすぎない。いずれにしても、Yシャツ・ネクタイ姿の、2,500年後の孔子様の子孫をカメラに収めたこの写真は記念すべきものであろう。

 

わたしにもできる料理

トマトと卵の炒め

●中国語中国語の家庭教師の夏さんから教わった料理。トマトと卵を別々に炒めて一緒にすればできあがりで、私が8年間の中国生活で覚えた唯一の料理。しかも、中国語で一番難しい四声が、1234声と順番に並んでいるのでとても印象的な料理名である。

 ちなみに、夏さんは母子家庭に育ったためか、女学生の中では例外的に料理上手だった。家庭教師として我が宿舎に来たときに、魚料理や鶏肉料理を作ってくれた。一番印象に残っているのは鶏肉料理である。大学の近くの青空市場の鶏肉屋に一緒に行ったときのことだった。

 けたたましい鶏の鳴き声に引き込まれて、狭い店の中をのぞくと、4,5個の狭いゲージに多くの茶褐色の鶏がひしめいている。夏さんが指さした鶏を店のオヤジが取り出し、逆さ吊りのまま竿秤で秤量した。鶏の鳴き声を無視して、店主が値段を言っているらしい。大きすぎるのか値段が高すぎるのか、夏さんは首を縦に振らずに、オヤジと価格交渉をしている。中国人は金の交渉ごとになると決して妥協しないのだ。可愛い少女風の夏さんも、結婚したら逞しい奥さんになることだろう。

 結局、やや小振りの鶏一羽を28元(約450円)で買うことになった。店主が後ろの電気洗濯機のようなモノに鶏を放り込むと、ほどなく羽毛がきれいに抜け落ちた丸裸の鶏が目の前に現れた。可哀想に鶏は湯気をたてて、既に息絶えている。そして、臓腑を抜き取り、小さく切り刻まれた肉片がビニール袋に入れられ、夏さんに渡された。

 それを持ち帰り、彼女は我が宿舎の台所で料理してくれたのだ。これほど取れたてほやほや(?)の新鮮な鶏肉料理は一度も食べたことがない。

 あれから、もう十年以上も経過し、私は今パソコンに向かって、ホームページを整理している。向こうから、洗濯機の回転する音がきこえているが、ふいに、あの気の毒な鶏を思い出した。

戻る ーー> 無錫の観光写真 ーー>