10 オホーツク街道 司馬遼太郎著

オホーツク街道

  3~13世紀に北海道を拠点に活躍した、アイヌ系とは異なる幻の海洋民族がいた。オホーツク海に面した港町「網走市」で生まれ少年期を過ごした私は、町に気さくな散髪屋のおじさんがいたのを、70年後の今でもかすかに記憶している。この人、米村喜男衛さんは、理髪店を営みながら、在野の考古学者として網走市モヨロ貝塚を発見し、「オホーツク文化」の存在を世界に知らしめたスゴイ人だったのです。

 

私は中国に滞在中に、満州の最北端でロシアとの国境を岐けている大河「黒竜江」(アムール川)への旅をし、その流域に棲むギリヤークやオロッコなどの北方少数民族を知りました。彼らの一部が樺太を経由して海の幸に恵まれた網走周辺に渡ってきたようです。司馬遼太郎は「オホーツク街道」の中で、「オホーツク人」より更に遙かな昔に、バイカル湖周辺で狩りをしていたマンモスハンターが北海道に渡ってきた痕跡(遺跡)にも話が及んでいます。

 

網走といえば、重罪人を収容する「刑務所」そして、高倉健さんの「番外地シリーズ」により暗いイメージがあります。しかし、米村翁の貢献により、じつは網走が北方民族の壮大なロマンの舞台であることがわかり、私は故郷網走の素晴らしさを再認識しました。

オホーツク文化人

 【オホーツク人となった少数民族】中国政府は、五十五の少数民族の中で、オロチョン族とエヴェンキ族を独立した民族として区別している(上の切手はオロチョン族)。一方、ロシアではオロチョン族はエヴェンキ族内で、方言を話す一支族として、両者を同一の民族とみなしている。

 

これら少数民族は、樺太ではロシア人、中国では漢民族に圧倒されて、人口減少がいちじるしいか、あるいは絶滅の危機に瀕している。敗戦後、南樺太から網走に移住した少数のウイルタやニヴフも、和人への同化が進み、彼ら固有の言語文化は消滅している。 

 

 司馬遼太郎は「韃靼(だったん)」という言葉に思い入れが強いようです。「チャレンジ5日目」で紹介した小説のタイトルも「韃靼疾風録」でしたが、このオホーツク街道でも、「韃靼海峡」が出てきます。韃靼海峡とは樺太とロシア沿海州の間にあり、和名は幕末にこの地域を探検した間宮林蔵にちなんだ「間宮海峡」です(下図)。司馬は、オホーツク人の文化的中継地として樺太の重要性を述べており、上に紹介した三少数民族が今でも樺太に住んでいるという。彼はこう綴っています。 

 

――韃靼海峡のもっとも狭い部分では、その幅は7.2キロにすぎず、冬には凍結して陸つづきになる。樺太はオホーツク海に浮かんでいるが、といっても孤立した世界ではない。冬のある時期だけはユーラシア大陸とつながって、人も物も文化もソリに乗って往き来していた。だから樺太は孤島ではなく、ユーラシア文化の一地方なのである。対岸の沿海州の背後には、広大な北アジアが広がる。その文化は中央アジア、さらには西へハンガリー高原にまで広がっていた。 

 

私は、韃靼海峡と聞くと、安西冬衛の詩を思い出しました。

 

――てふてふ(蝶々)が 一匹 韃靼海峡を渡って行った。

 

日本のモダニズム現代詩人・安西冬衛は、かつて大連に住んだことがあるそうだ。ある文芸評論家は、勇猛豪胆な「韃靼」の荒海(海峡)と、はかなげにして優雅なる蝶々が見事な対比をなしており、この一行詩は傑作だと評価している。私も大連に四年間いたが、詩心のない私には「韃靼海峡」など思いもよらない用語ですが、この詩では間宮海峡より「韃靼海峡」の方が、イメージでも言葉の響きでも、断然いいでしょう。

韃靼海峡を渡る蝶々

 日本の蝶「アサギマダラ」は、千キロの海を渡ると言われている。左の絵図はそれをイメージして描いた。 

 

最後に、日本歴史区分につき本州と北海道(蝦夷地)を対比して示します。

 

本州と北海道の歴史

「オホーツク人」は、黒竜江下流域から樺太を経由して北海道のオホーツク沿岸に来て、食を豊かな海の幸に依拠して「オホーツク文化」を花咲かせた。有名な「イヨマンテ(熊祭り)」は、オホーツク人がアイヌ人に伝えた。 

 「アイヌ文化」は1,300年頃からと比較的新しい。しかしアイヌ人は、北海道の縄文人の正当な子孫であり、また「オホーツク文化」も継承している。  

 

 現代日本人は弥生人の末裔で、団結心の旺盛な優れた単一民族であると自負している。しかし、その自信をちょっと横に置いて、日本古代史の多様性に思いを馳せることも必要ではないだろうか。このことを、司馬遼太郎が独自の考古学的視点で綴った「オホーツク街道」で気付かせてくれます。     (了) 

網走の海産物
日本人の起源

上のテーマを人類の世界史の視点から眺めてみます。 

 

ホモ・サピエンスの誕生と出アフリカ、アジアへの拡散

 

いま世界中にいる現生人類(ホモ・サピエンス)は約20万年前にアフリカで誕生し、やがて世界へ拡散した(出アフリカ;The Great Journey)。東に分岐した人類は4~5万年前に東アジアに到達したと考えられる。その後、下図の3ルートで日本列島に到達した。

ホモ・サピエンスの日本列島に到る経路
上の絵図をクリックすると拡大されます。

 

 しかし、下図に示したように日本列島には、砂原遺跡など9-12万年前の古い遺跡が発掘されている。それらの住人はホモ・サピエンスではなく旧人か? 

 だが、これら古遺跡では人骨が発見されておらず、年代は発掘された石器のある地層からしか特定できていない。じつは、約9万年前に阿蘇山の大噴火があり、九州だけでなく本州西部の遺跡まで大被害が及んでいるそうだ。これが、それ以前の遺跡の年代特定を困難にしているらしい。

 正確な年代の確定は今後の研究にまたねばならないが、新人(ホモ・サピエンス)や旧人が、9-12万年前に日本列島に到達した可能性は極めて低い、と私は考えています。

日本人の渡来遺跡の証拠
画面をクリックすると拡大されます。

 

 以上をまとめて再編集すると、日本列島への渡来人とその後の日本人の歴史は以下のようになる。

渡来人のルートと歴史

 画像をクリックすると拡大されます。

「マンモスハンター」と「オホーツク人」の間には、約2万年の開きがある。

 

戻るー>