10 日本語教師の就職と解雇

ここで、私が日本語教師の資格をとり、長安大学に就職し、2年で解雇されて、また職探しをしなければならなかった経緯をまとめて書くことにする。

私は2003年に日本の製薬会社を60定年退職した。最近でこそ終身雇用制が崩れているが、私は、35年間一つの会社で勤め上げたサラリーマンである。だから、その間、解雇の経験もなければ職探しの苦労もまったく知らなかった。

会社の定年退職を機に、理科系から文化系の日本語教師に転進した。その選択は間違ってはいなかったが、仕事上のコネや後ろ盾が全くなく、日本語教師としての資格すらない、ゼロからのスタートだった。

定年退職する2年前ころから、将来は日本語教師をやりたいと思うようになり、その準備として、『外国人のための日本語教師通信教育』を受けた。しかし、基礎知識を得るためにはとても役だったが、就職のための『資格』とはなりにくいことがわかった。そこで、退職した年の秋から、ヒューマン・アカデミーの日本語教師養成講座(1年制420時間)を受講した。

 

山科疏水で昼食のおにぎり弁当を食べる

A 日本語教師養成講座

会社定年退職した年の秋から、週三回、大津市から自転車で、逢坂の関の裏街道『小関越え』を進み、自転車で片道約2時間かけて京都の学校へ通った。

三井寺の山門前から小関越えの山道を行き、自転車を押して急な坂を登り切ったところで峠に着く。そこのお地蔵さんに礼拝してから、小関越えを下り、山科疏水のあたりで家内がこしらえた昼食用のお握り弁当を藤棚の下で食べた。会社時代には大学の教授を一流の料亭にお招きして豪華な食事をしたこともあるが、そんなものより粗末ながら愛妻弁当の方がよっぽど美味しかった。

――会社との縁がきれて、肩書きも何も無いただの人間になってしまったが、未来に向かって今こうして一から再スタートしている毎日が楽しい。

そんな思いだった。桜が満開のときには、ひらひらと舞い落ちる花びらを愛でながら、外国で教師をはじめたらこの桜もしばらくの間、見られなくなるだろうと思いながら。

こうして、1年間の受講を終えようとしている8月頃から海外での就職を目指したが、どのような方法で、何処の国で日本語教師ができるのかが分からなかったし、頼るべきツテもない。

 私は研究者生活で、仕事上の必要から日常英会話ができるので、現地の生活に不自由しない欧米の大学で職を得たいと考えたものの、インターネットで探しても欧米の国からの求人は見つからなかった。

ヒューマン・アカデミーの井上講師に相談した。彼女は欧州で日本語教師の経験があった。

「いきなり欧州の大学を目指すより、まず第一ステップとしてアジアの大学で教師の経験を積んでみてはどうですか。あなたは薬学博士なのでアジアの大学でなら採用される可能性が十分にあります」

 と、井上講師が助言してくれた。

 もう一人の葛西講師は中国での教師の経験談を語ってくれた。私は、高校の世界史や漢文の授業をつうじて中国の歴史や文化には関心があったので、アジアを目指すなら中国が一番いいと考えた。が、インターネットを検索すれば日本語教育で実績のある中国の大学は分かっても、それらの名門校からの求人広告はなかった。後で分かったことだが、中国の名門大学日本語科は日本の大学と提携関係があって、私のような門外漢が入り込む余地はないのだ。

あるやる気満々の若き女性が「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」と、インターネットで調べ上げたアジア各国の大学20ヵ所に手当たり次第履歴書を送りまくって、ようやく一つの大学に就職できたという話を聞いたことがある。その心懸けこそ、私も学ぶべきだ。

 

B 長安大学への就職

215日本語教師会』『日本村』『日本語ONLINEなど、インターネットのホームページを検索したら海外の就職先を探すことができるが、その頃の私はそんなこともよく知らないまま、パソコンのキーを叩いてネットサーフィンをしていた。そのうちに、キーを打ち間違えたのか、西安市のホームページが忽然と現れた。意外や、そこに、

 ――長安大学、日本語教師一名募集!

 と広告があった。日本人あこがれの長安の都にある大学に違いない。これは魅力的だ! ところが、締め切り日がその日であり、午前0時まで数時間を残すのみだった。必死になって履歴書など関連書類を書き上げ、まもなく日付が変わる直前の1155分にEメールに添付して申し込みが完了した。

 

中国の大学からの求人広告では、以下の三点のいずれかを採用条件としている場合が多い。

日本語教育学会認定 日本語教育能力検定試験の合格者
日本語教師養成講座
420時間コースの修了者
大学で日本語教育課程、主・副専攻の修了者

 この他に日本の中・高校の教員免許取得者が採用される場合がある。長安大学で私の同僚であった日本人教師がこれにあたる。また、1-3に加えて大学などでの教育経験を問われることも多い。

 ただし、この時期には、年齢制限が厳しくなかったが、後年、北京政府により、《外人教師の採用は60歳までとする》との方針が明確化された。こうなると、私のような会社を60歳定年後に日本語教師を目指す老人は、中国での門戸が閉ざされることになる。

 

私の場合には、二番目の420時間終了資格しかなかった(一番目の試験を受けたが不合格だった)。ただし、大学によっては上のを求める場合があり、この場合、理科系の博士など評価の対象外だった。

 長安大学の求人では、私はに該当する資格で求人条件を満たしている。私は東京の人材斡旋会社で面接試験を受けたところ、面接は半時間ほどで終わり、あっさりと採用が決まった。数人の若い女性教師も面接を受けていたにも関わらず、私が採用されたのはなぜか? 

 面接試験官の中国人の陳さんがいった。

「いま中国では一人っ子政策で我が儘に育った子供が多いです。そんな子供は中国では、『小皇帝』とか『小公子』と呼ばれています。このようにして育った学生をしっかり指導するためには、あなたのような人生経験豊かな人が適任です」 

 老齢が採用に有利であるとは、幸運であった。じつは、その前年に西安市の西北大学の文化祭で、日本人の教師と留学生が卑猥な寸劇をやった。中国人学生が、不謹慎で中国人を侮辱するものだと怒り、暴動にまで発展する事件があった。こんなことも、良識のある言動を期待して私を採用してくれた理由の一つかもしれない。

長安大学で一年間働き、二年目も継続して採用された。この大学の日本語科は、私の在任中、発足12年目で、一学年189人と少ない学生数であったため、日本人教師は一人で十分であった。にも関わらず、2年目の途中から、もう一人の日本人松浦先生(元高校教師)が雇われたのは、外事処が社会人相手に日本語の公開講座を開いたからだ。企業や大学から派遣された社会人が半年間宿舎生活をして学んでいた。授業(主に会話)は二人の日本人教師が、日本語科の授業のかたわら担当した。

私はこの大学で所属が外国語学院日本語科のつもりであったのに、なぜ『外事処』のために働かなければならないのかが理解できなかった。しかし、日本語科の学生が20歳までの若者であったのに対して、公開講座の受講生は大手自動車会社の社員や大学勤務者であったので、中国各層の生活者の暮らしぶりを知ることができたのは、興味深かった。

 

C 外事処から解雇通告

社会人の公開授業は受講生の日本語レベルがかなりばらついているので1クラス編成で一緒に教えるのは効率が悪かった。そして、外事処が社会人受講者を順調に集められなかったためか、この公開講座は行き詰まり、開講後1年で中止せざるを得なくなった。

こうなると、日本語科の日本人教師は一人で十分だったので、先任の私が解雇されることになった。この大学で2年目の5月頃、外事処の張科長は私を呼び出して、明言を避けながらも継続採用の意思のないことを臭わせた。西安の名門校・西安外国語大学の日本人教師が2年勤めて日本に帰ることになっているのを知った私は、日本人教師は2年単位で交替するものなのかと思って、特に疑問を感じることもなく辞めることにした。しかし、私は日本語教師をこの長安大学ではじめたので、教え子には特に思い入れがあり、彼らとの別れはとても辛かった。

この後、幾つもの大学を経験して分かったことは、大学は馘にする外人教師には冷淡で、アフターケアはしないのが普通だ。せいぜい、辞める外人教師が次の就職先に応募するときの、推薦状を書いてくれるだけである。 

 

☆弱い立場の日本語科教務主任

 外事処の決定で長安大学を辞めることになったとき、私にはひとつ不満があった。日本語科教務主任は、私が3年目も継続採用されるようなサポートを何もしてくれなかったのだ。私が学生との良き関係を作るように努力していたことや、中国人教師にも情報を提供していたことや、さらに授業にも特に落ち度は無かったことを教務主任がよく知っていたはずなのに。しかし、それは私の過大な期待に過ぎないことが後で分かった。

 それは、大学組織内の日本語科の地位の低さと関連しているのだ。

 外国語学院(日本の学部)のなかで重要な位置を占めているのはやはり英語科である。だから、外国語学院長には殆ど英語科出身者が就く。その重要度と比べると日本語科は補助的な存在でしかない。それでも、日本語が英語に次ぐ外国語として重視されているのは、我々日本人にとって喜ぶべきことではあるのだが。

学院の教育活動を上から管理しているのが『教務課』である。またこれとは別に、外国人教師の人事権を握っているのが『外事処』である。

 こうして、外事処が私を解雇すると決めた以上、日本語科教務主任は何も口出しできないのだろう。

 この大学では良くも悪くも外事処の存在が目立っていたが、大学によっては、現場の教師の自由な活動に干渉したがる教務課の支配に気づくこともあった。

さらに、ある大学では、教室のカギを管理しているオバサンが絶大な権力を握っていることもあった。

私は追加授業の必要があって、1時間の教室使用手続きをした後で、学生と教室へ行った。ところが、教室の管理人は「連絡を受けていないので、教室の使用を認めない」というのだ。押し問答をするも埒があかず、学生がもう一度教務主任に連絡し、再手続きをした。ようやく納得した管理人が教室のカギを開けたときには、もう教室の使用時間は残り少なくなっていた。私は怒りに狂って叫んだ。

「お前は誰のために働き、誰から給料をもらっているのだ。ここにいる学生たちだぞ。それも分からないようなヤツは、とっとと学校を辞めてしまえ!」

管理人はふて腐れたような表情で聞いていたが、学生は中国語に翻訳することを躊躇したのか、何もいわなかった。このような大学の硬直した管理体制は、中国人の元々の体質からなのか? あるいは半世紀以上もつづいている共産主義支配体制の悪影響によるものなのか? 

 

 こうして、私は長安大学を辞めることになり、二年前の振り出しに戻った。が、この間の中国生活で、私には意識の変化がおきていた。2年前には、中国で日本語教師としての実績作りをした後、欧米諸国の大学へ雄飛しようと考えていた。だが、学習意欲の高い学生に巡り合い、また旅行で歴史と文化の粋に触れているうちに、私は中国の虜になってしまった。もう他の国で教師をしようと思う気持は消え失せていたのだ。

しかし、私には依然、頼るべきツテが無かった。日本語教育に実績のある大学から中国の大学に派遣されるような日本人教師は、“寄らば大樹の陰”で、いくらでも就職口はあるのだろう。一方、私には自助努力をして道を切り開いていくしかないのだ。

 私はインターネットで中国の大学の求職先をさがした。

大学組織図

 

 

 

 

 

 

大学組織内の日本語科の地位

 

D 思い思われすれ違い

次の就職先として、河南省の名門国立T大学の求人広告を見つけた。待遇は、学歴によって給料に差があり、修士以上者は3,200元とあり、また採用条件に日本の高校教師の資格者を優先的に採用すると書いてあった。だが、理科系と文化系を区別していないので、私の給料は修士以上者扱いで3,200元となりそうだが、詳細がわからなかった。

そのことを、外事処の張科長と話していたら、T大学に電話してあげようかと言ってくれた。T大学日本語科の窓口責任者と話したところ、

「森野氏は採用候補者に入れたいが、大卒者の給料2,500元しか払えない」

とのことだった。

長安大学の給料より1,000元も少ないのが辛いし、私の能力が文化系修士卒者や高校の国語教師より低く見られていることが無念だった。T大学はくだらない資格にこだわるところだと思った。しかし、他の大学から採用される見通しが立っていない。家族に連絡して意見を聞いてみた。

  珍しく娘からメールがきた。

――お父さん、給料の多寡などどうでもいいでしょう。T大学でも長安大学の学生のような素晴らしい学生と巡り合えるのなら、それが一番。薬学博士であっても、学卒の待遇で採用してもらったらいいじゃないの。お父さんの日本語教師としてのプライドをちょっと横に置いたら、別の世界が開けると思うよ。学卒の待遇のままでも、そこで実力を発揮して、大学関係者の認識を変えてやる覚悟で頑張って。お父さんの生き甲斐こそが、家族の喜びでもあることを忘れないで! 私、最近忙しくしているけど、お給料はとてもいいの。もし、お金が足らなかったら援助してあげる。

 

娘は、十年前には親のスネかじりだったのに、泣かせることを言ってくれるぜ!

そこで、「学卒の待遇で満足ですから是非採用してくださいませ」とT大学に履歴書と共に求職の熱意を書いた。返事が来ないまましばらくすると、T大学のインターネットの求人条件に、次の付帯事項が追加されていた。

――ただし、採用年齢は35歳まで。

私の排除を狙ったとしか思えない広告が出て、間もなく断りの返事がきた。

チクショー、やり方が汚いぜ! 私は腸が煮えくりかえる思いがしたが、抑えて丁重なメールを送った。

――この度はご縁がなくて、採用していただけませんでした。またの機会にはどうぞ宜しくお願い申し上げます。貴校日本語科のますますのご発展をお祈りいたしております。

こうして、この年は、T大との関係は途絶えたが、腐れ縁はまだまだ続いた。翌年、無錫の大学を一年で辞めたので、T大学に再度問い合わせをした。その年にはT大学からインターネットの求人広告が出ていないにも関わらず、また前年あのような仕打ちを受けたにも関わらず、藁をもつかむ思いで訊ねたのだ。しかし、

――前年採用した日本人教師を継続採用するので、応じられない。

との返事だった(この大学も二年単位で教師が移動するということだろうか)。

 

ところが、その次の年の夏に、T大学からヘンなメールが届いた。

――森野先生。お久しぶりです。先生は今でも中国で日本語教師を続けておられますか。新年度の就職が決まりましたか?

どうやら、二年続けた私の思い入れにT大学の心が動いたようだった。といっても、日本人教師の新規採用が順調でなかったから、私にお鉢が回ってきただけなのだろうが。しかし、こちらは、江西師範大学で二年目の継続採用が決まっていた。

T大学と私との関係は“恋の道”に似ているな、と思った。

熱烈な恋情で擦り寄っているうちは相手の女は振り向きもしないのに、こちらに女ができて前の女など忘れてしまった頃に相手が秋波を送ってくるように。

私は笑いを抑えて、再び丁重な返事を送った。

 ――私のような者を忘れずに、ご連絡くださり、感激いたしております。しかし、・・・・・・

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