4 長安大学での生活

長安大学の校門前

A 教師連絡会

 私は毎週一回2時間、教師連絡会に出席した。楊教務主任が教えている『精読授業』のテキストについての質疑応答が主な話題であった。精読授業とは中国人教師が日本語の文法語彙文型表現など基礎的日本語の全てを中国語で教える日本語科で最も重要な授業である。40歳ちかい楊助教授は日本語の教師歴十数年のベテラン教師なのに、教師を始めたばかりの私にテキストの内容を根掘り葉掘り質問した。

「日本語科という永年の夢が実現して、私は嬉しいですわ」

と言っている彼女は、発足したばかりの日本語科を軌道に乗せようと、熱意に燃えているのだろう。その後赴任した4つ大学で、これほど意欲のある教務主任を見たことがない。定期的にミーティングを開いて教師が勉強するようなことも、この大学だけであった。日本語科立ち上げ時にはあった熱意は、時間の経過とともに消え去って現状に甘んじてしまうからではないだろうか? 唐王朝第二代の皇帝太宗が『貞観政要』で家臣に問うている。

――創業と守成、何れが難きや。

と。この命題は時代、専門領域を問わず生き続けているのだろう。

私は毎週開かれる連絡会で話題となる精読授業用のテキストをあらかじめ文字通り“精読”して準備した。新米教師の私がベテラン教師を教育するというのは、不可思議なことであるが、たとえ教師歴一年目の私でも、

――日本人教師は日本語のことなら何でも知っているはずだ。

という思いこみが中国人教師にあるのかもしれない。ネイティブ日本人の言語感覚を参考にしたかったこともあるのだろう。それほど期待されている私ではあるが、中国人教師の質問にいつも正しく答えられるとは限らないのだ。返答に窮したときには、宿題として引き取り、必死に勉強して次週の連絡会に間に合わせた。この毎週の試練が私を鍛えた。楊教務主任がこうして新米教師の私を教育していた、とも言えるだろう。

そのときに役だったのが、『初級を教える人のための日本語文法ハンドブック』(著者:庵功雄ら、スリーエーネットワーク社)である。日本から持参した参考書はこれだけなので、ベストかどうかは不明だが、大抵の場合これで十分であり、その中級編と共に優れた参考書だと思う。中国に来て分かったことは、連絡会だけでなく授業でも、日本人教師に助言してくれる人は、誰一人としておらず、日本語に関わることはすべて自分で解決しなければならないことである。

こうして精読用テキストを読んでいるうちに、あちらこちら日本語として不自然な記述のあることに気付いた。しかも、ここには書けないような身体障害者への差別用語すら散見され、日本でなら直ちに発売中止になるであろう。私は、このテキストが教科書としては不適であるので、使うべきでないと楊助教授に進言し、次年度からは別のテキストに変更された。このテキストの共著者はすべて中国人だった。以来、私は日本人が共著者に加わっていない日本語のテキストは信用しないことにした。

こうして、長安大学で生活しているうちに、外国にいる日本人教師とは全て自己だけを頼りに道を切り開いていかなければならない職業であることを実感するようになった。幸い、西安市には活発な活動をしている『日本語教師会』があって数ヵ月に一度の会合で、研鑽する機会があるのは有り難かった。

  

B 朝鮮族の張とのプライベートレッスン

朝鮮族の学生張春梅

 中国は92%の漢族と8%の少数民族からなる多民族国家である。その少数民族は55族もあり、朝鮮族は吉林省を中心に192万人の人口である(2000年の人口調査より)。

私が長安大学に赴任してまもなく、楊日本語科教務主任から張春梅にプライベートレッスンをしてやるように要請された。というのは、張は吉林省出身の朝鮮族だが、中学高校時代に民族学校で既に6年間も日本語教育を受けていたからである。中国でも第二外国語は英語が一般的なので、張が通った民族学校はちょっと特殊な教育方針を採っていたのだろう。これは、中国政府が民族融和政策により、少数民族に対する自治をある程度認めていることと関係していると思われる。

中国の大学日本語科に進学した学生は、ここではじめて日本語教育を受けることになっており、授業は『あいうえお』の修得から始める。しかし、張春梅はすでに日常会話が自由自在にできるレベルにあったから、他の学生と同じ初等教育は無意味である。そこで、私が週に一回のプライベートレッスンで張に上級日本語を教えることになった。

「ただし」と楊教務主任はいった。「彼女は清音と濁音の発音に問題があるので、そこを矯正してやってください」

濁音の混同は中国の日本語学習者に一般的に見られる現象で、たとえば『わたし』を『わし』と発音してしまうのである。中高時代に彼女を指導した中国人(おそらく朝鮮族)の日本語教師の指導に問題があったのだろう。私はこの点に留意して指導したが、言語感覚に優れた彼女は数ヵ月でこの欠点を克服してしまった。こうして張への週一回の個人指導が続き、二人の間には親密な師弟関係ができつつあった。

そんなある日、我が宿舎で昼食を摂りながら雑談しているうちに、彼女の家族のことが話題になった。吉林省に住む朝鮮族は朝鮮語を母語としていることより、経済的発展している韓国へ仕事を求めて行く人が多いそうで、張の両親も今、韓国で働いているという。彼女はそのついでにこうも言った。

「私の家族は、元々おじいさんの時代に、朝鮮から吉林省に移住したそうです」

 それを聞いた瞬間、私の胸がわずかながら波だった。

「もしかしたら・・・・・日本の朝鮮植民地支配から逃れるため?」

「いえ・・・・・それはわかりませんが」

 

 私の生地北海道は、明治時代以後、内地(本州など)各地から人が移り住み、故郷の因習に拘る必要のない自由な雰囲気の新世界であった。だから子供の私は朝鮮人や中国人への偏見や差別意識を大人からすり込まれることがなかった(事実、朝鮮人や中国人を町中で見たこともないのだから)。が、13歳で京都に移住してからは、朝鮮人や中国人を見、彼らへの差別があることを知った。同じ日本人でありながら、部落民差別のあることもはじめて知った。

 こうして豊かな大自然に囲まれ、差別意識の少ない北海道で幼少年期を過ごすことができたのは、私の人格形成によき影響を与えたと思えるのだ。

 長ずるにしたがい、日中と日韓それぞれの間に歴史を巡る軋轢のあることを知った。そして現在まで続いているのだ。しかし、それは国レベルの問題であって、私の日常とは無縁であった。

 だが今、張春梅のさりげない言葉から、意識下では中国人の一部にすぎない朝鮮族が、『朝鮮半島の朝鮮人』という特別な意味をもって私の前に現れてきたように思えて、心穏やかではいられないのだ。とはいえ、わたしは、戦中の1943年生まれであり、過去の日本帝国主義の行為に対して何の責任があるわけでもないし、とりようもないのだ。彼女も私にそのようなことを求めているわけではないだろう、と我が心の動揺を鎮めた。

そして、これだけは是非、張に紹介しておきたいという逸話があった。

青函連絡船の乗船時にDDTの散布
青函連絡船の乗船時にDDTの散布            混雑する列車

    第二次世界大戦後の1、2年目だから、私が3、4歳のころ、父は私を連れて親元の滋賀県へ里帰りをした。私はこの旅行のことは殆ど記憶になく、覚えていることといえば、青函連絡船に乗るとき、DDTの粉を頭に振りかけられたことと、青森駅で乗った列車の窓にガラスが殆ど無くて、ベニヤ板で塞がれていたことだけである。客車はひどい混雑だったらしく、土産物などをいっぱい詰めた大きなリュックサックを持ち幼児をつれていて困った父は、ふと隣の客車が空いていることに気づいた。そこは、朝鮮人ばかりが座席を占有している客車らしい。おそらく、戦中に北海道の炭坑などに徴用された朝鮮人が、今や戦勝国となった母国へ帰るための特別の客車だったようだ。

 父は彼らから怒鳴られて追い返されるだろうとは思いながらも、恐るおそる入っていった。すると、朝鮮人たちは幼児の私を見るなり、

「おお、可愛い坊主だ、ここへ来い」

 と、皆で膝の上に載せて、とても可愛がってくれたそうだ。

「苦しい汽車の長旅を楽にできた。あの時はほんまに朝鮮人に親切にしてもろうたワ」

 子煩悩な父はこの思い出を、息子自慢もかねてか、親戚の前で何度も話したのを私は覚えている。

 張春梅はこのエピソードを聞いていった。

「へーえ、先生は子供のときには、そんなに可愛かったんですか」

「そうらしいね。父の自慢だったようだ」

 といい、私は張と大笑いした。

 人間とはおかしなものである。人生の中で、あるところで、あるときに、たまたま一回だけ受けた他人からの恩や好意を忘れないものである。『袖振り合うも多生の縁』というではないか。わたしもそんな思いで、彼女に向き合い、教師としてできるだけのことをしてあげようと思った。 

 

張春梅には、もう一つ中国人朝鮮族特有の興味深い特色があった。彼女は大学を卒業後、日本の会社、つぎに韓国の会社に転職したが、2012年にはTOEICテストで830点を取ったという。私が研究者のときに受けたテストでは六百点台で、日常会話ができるレベルにすぎなかった。彼女が中高時代にまったく英語教育を受けていないことを考えると、830点は驚くべき高得点である。こうして張は、子供のときに朝鮮語、小学校から中国語(普通話)、中学校から日本語、そして社会人になってからは英語をマスターし、4ヵ国語を話すマルチリングイストになった。語学的才能豊かな彼女は、その後シンガポールへの駐在員として活躍している。 

 

【追記】日本帝国主義による朝鮮の植民地支配と圧政から逃れるために、朝鮮人が朝鮮半島から中国領に逃れたかどうかについては必ずしも定かではない。日本の傀儡政権『満州国』が成立時に、多くの朝鮮人が自発的に鴨緑江を渡って旧満州に移住したとの見解もある(ウイキペディア 朝鮮族)。張春梅の祖父か如何なる事情により吉林省へ移住したかは、私にはわからない。

 

C 千客万来

我が宿舎に遊びに来る学生

学生との交流が深まるにつれて、学生が頻繁に我が宿舎を訪れた。その常連は、王玉班長、プライベートレッスンをしている張春梅、日中語の勉強仲間で音楽大学の劉トンだった。キャンパスでテニスをしている仲間や第二外国語として日本語を教えている他学部の大学院生も来た。

また、外人用宿舎で知り合った外国人留学生、イエーメン人のハリドと、ネパール人のグプタも食事に来た。二人には寿司を中心に肉の缶詰も準備したが、回教徒のハリドに気遣って豚肉は出さなかった。しかし、グプタがインド系ネパール人でヒンズー教徒であることを聞いて一瞬青くなった。もしや牛肉が・・・・・・

丸顔のグプタが笑顔でいった。

「今日の肉料理は羊肉と鶏肉なので、私は喜んで食べていますよ」

 やれやれ、よかった。なるほどグプタはネパール人らしからぬ顔つきで、肌の色もハリドに負けないくらい浅黒い。もちろん、二人とは英語で話し合った。日本語教師をしていながら、やっぱり国際語は英語だ、と思い知らされた。

 こうして、わが宿舎には、漢族を中心に、少数民族である朝鮮族、満州族、回族と、多民族国家中国の特色ある学生たちが押しかけているし、外国人もいて、インターナショナルだった。  

 

D 忘年会(カラオケと火鍋)

18人の学生を二グループに分けた。

忘年会の学生
カラオケで歌う学生
忘年会で火鍋を食べる学生
火鍋円卓をよこに広げると一列に並んだように見える。

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